2011年06月19日
≪ 醍醐寺・三宝院 ≫ 秀吉ゆかりの特別名勝庭園
京都さんぽ、散策の最後は 醍醐寺・三宝院 の庭園へ。
三宝院の唐門 ( 国宝 ) は無事に修復が終わり、絢爛豪華な
姿がよみがえっています! 菊と桐の紋が眩しい~ ( 笑 )

醍醐寺といえば、豊臣秀吉が醍醐の花見を行ったことでも
知られ、その花見に際して再建した三宝院の庭園は、秀吉
自らが作庭を指揮したともいわれ、現在は国の特別名勝に
指定されている名庭です!

しかし、撮影はできませんので、石碑だけ ( 笑 )
まだ梅雨の季節は続きます。 雨は出掛ける足を重くして
しまいますが、梅雨だからこその美しい風景を見るために
ぜひお出掛けください~♪
三宝院の唐門 ( 国宝 ) は無事に修復が終わり、絢爛豪華な
姿がよみがえっています! 菊と桐の紋が眩しい~ ( 笑 )

醍醐寺といえば、豊臣秀吉が醍醐の花見を行ったことでも
知られ、その花見に際して再建した三宝院の庭園は、秀吉
自らが作庭を指揮したともいわれ、現在は国の特別名勝に
指定されている名庭です!

しかし、撮影はできませんので、石碑だけ ( 笑 )
まだ梅雨の季節は続きます。 雨は出掛ける足を重くして
しまいますが、梅雨だからこその美しい風景を見るために
ぜひお出掛けください~♪
2011年06月19日
≪ 隨心院 ≫ 苔の庭
勧修寺で美しい花を鑑賞した後、小野小町ゆかりの寺院
として知られる 隨心院 を訪ねました。

庭園の苔、よ~く見ると、穴が点々と開いています・・・??

そう、屋根から落ちる雨が苔に穴を開けたんですね ( 笑 )

さて、隨心院の後に、最後は醍醐寺・三宝院の特別名勝に
指定される名庭を訪ねてきました。
として知られる 隨心院 を訪ねました。

庭園の苔、よ~く見ると、穴が点々と開いています・・・??

そう、屋根から落ちる雨が苔に穴を開けたんですね ( 笑 )

さて、隨心院の後に、最後は醍醐寺・三宝院の特別名勝に
指定される名庭を訪ねてきました。
2011年06月19日
≪ 勧修寺 ≫ 梅雨の季節の花がすべて満開です♪
山科の 勧修寺 ( かじゅうじ ) には、平安時代の貴重な庭園
である氷室池が広がり、花菖蒲と睡蓮がまだまだ満開です!
■ 花菖蒲


■ 睡蓮


夏至を過ぎた頃の季節 「 半夏生 」 ( はんげしょう ) に咲く
ことに由来するとも、葉の一部が白く 「 半化粧 」 することに
由来するとも伝えられる、半夏生も池のほとりにありました。
※季節の呼称 「 半夏生 」 は、太陽暦で7月2日頃のこと。
■ 半夏生


仏教では、お釈迦様が入滅された際に白い花を咲かせて、
すぐに花を散らせて遺体を白く覆ったと伝えられている花が
「 沙羅 」 ( さら ) の花です。
■ 沙羅

朝に咲いて夕方には散る儚い花で、物事の儚さの象徴とも
捉えられて、平家物語の冒頭などにも詠まれています。
日本でいう 「 沙羅 」 は、夏椿をそう呼んでいます。

苔の上に、沙羅の花が儚く散っていました。。

一年中、赤く彩られている楓の木、雨に濡れて輝きを増し、
新緑の季節にあってひときわ鮮やかでした ( 笑 )


その他にも紫陽花も満開で、まさに勧修寺は今が季節の
花がすべて見頃になっていますので、ぜひ皆さんも訪ねて
みてください~!
である氷室池が広がり、花菖蒲と睡蓮がまだまだ満開です!
■ 花菖蒲


■ 睡蓮


夏至を過ぎた頃の季節 「 半夏生 」 ( はんげしょう ) に咲く
ことに由来するとも、葉の一部が白く 「 半化粧 」 することに
由来するとも伝えられる、半夏生も池のほとりにありました。
※季節の呼称 「 半夏生 」 は、太陽暦で7月2日頃のこと。
■ 半夏生


仏教では、お釈迦様が入滅された際に白い花を咲かせて、
すぐに花を散らせて遺体を白く覆ったと伝えられている花が
「 沙羅 」 ( さら ) の花です。
■ 沙羅

朝に咲いて夕方には散る儚い花で、物事の儚さの象徴とも
捉えられて、平家物語の冒頭などにも詠まれています。
日本でいう 「 沙羅 」 は、夏椿をそう呼んでいます。

苔の上に、沙羅の花が儚く散っていました。。

一年中、赤く彩られている楓の木、雨に濡れて輝きを増し、
新緑の季節にあってひときわ鮮やかでした ( 笑 )


その他にも紫陽花も満開で、まさに勧修寺は今が季節の
花がすべて見頃になっていますので、ぜひ皆さんも訪ねて
みてください~!
2011年06月19日
南蛮寺

天文18 ( 1549 ) 年に日本へ伝来した キリスト教 は、織田信長が南蛮文化に理解を示したこともあり、その勢力を急速に拡大しました。
日本各地に建てられた教会堂は 『 南蛮寺 』 ( なんばんじ ) と呼ばれ、京都には三階建ての壮麗壮大な南蛮寺が建立されました。
しかし、急激な勢力拡大のなかで宣教師による信仰の強制、社寺の破壊、僧侶への迫害などが問題となり、天正15 ( 1587 ) 年 6月19日、ついに 豊臣秀吉 は キリシタン禁令 を発布することになりました。