2017年09月08日

9/8(金) ≪ 新幹線の車窓から戦国ツアー ≫

今週、2度目の東京へ。 

- 京都 - 鴨川 と 比叡山


新幹線に乗る楽しみのひとつは、やっぱり車窓からの素敵な眺めですが、よくよく景色を眺めていると、いろいろな歴史的な史跡が見えてくるんです ( 笑 )

- 滋賀 - 安土城跡 ( 中央、奥の薄い緑の山 )


かつて近江国とよばれた滋賀県を通過する際には、戦国時代ゆかりの史跡が次々と! 織田信長が拠点とした安土城跡に、石田三成が居城とした佐和山城跡など、戦国ファンにはたまらない史跡が次々と見えてきます ( 笑 )

- 滋賀 - 佐和山城跡 ( 左奥の山頂あたり )


羽柴秀吉( 豊臣秀吉 )が居城とした長浜城は、この正面奥の方角のはず!( 笑 )

- 滋賀 - 長浜城跡 ( 正面奥の方角 )


天下分け目の戦いが繰り広げられた、関ヶ原です!

- 岐阜 - 関ヶ原の合戦地


わっ! 超高速で走る新幹線からのスマホでの撮影、最後の最後にシャッターのタイミングが遅れてしまい、ミスしてしまいました~ ( 汗笑 )

- 愛知 - 清洲城


歴史好きは、ぜひ、新幹線の車窓で眺める戦国ツアー、楽しんでみてください ( 笑 )
  

Posted by 若村 亮  at 20:28Comments(0)歴史コラムらくたび日記

2017年05月20日

5/20(土) ≪ 天皇陵めぐり シリーズ第4弾 ≫

本日は、京都さんぽの人気シリーズ ≪ 天皇陵めぐり ≫ 第4弾が開催されまして、最高気温32℃に迫る炎天下の下、東山の泉涌寺&東福寺の界隈をめぐり、歴代124天皇の中から17天皇の陵墓を参拝してきました。



本日一番の熱弁を振るった、幕末の孝明天皇陵です ( 笑 )

  のちのつきのわのひがしのみささぎ
◆ 後月輪東山陵 ( 第121代・孝明天皇陵 )


天皇家の菩提寺として格式高い歴史を受け継ぐ泉涌寺には、鎌倉時代の第86代・後堀河天皇、第87代・四条天皇をはじめ、江戸時代の第108代・後水尾天皇から第121代・孝明天皇まですべての天皇陵があるため、一気に16天皇陵を参拝しました。

そして、東福寺の南東に陵墓がある、第85代・仲恭天皇陵も参拝しました。

  くじょうのみささぎ
◆ 九條陵 ( 第85代・仲恭天皇陵 )


ちなみに、歴代天皇の陵墓は長い歴史の中で荒れ果てて場所がわからなくなったものも多く、明治時代になって古文書などから埋葬された場所を推定して造営された陵墓もあります。 その際に参考として宮内庁が管理する 「 陵墓参考地 」 という場所が設けられ、仲恭天皇の陵墓参考地とされる場所が東福寺の西側にあり、現在は宮内庁の管理となっています。

東山本町陵墓参考地


第85代・仲恭天皇とは、承久の乱の勃発する激動の時代にわずか4歳で天皇に践祚 ( せんそ : 天皇の位を受け継ぐ ) したが、承久の乱に勝利した鎌倉幕府によってわずか77日で廃位させられた歴代天皇の中で最短の在位期間となる悲劇の天皇で、即位式を執り行うこともできず、「 廃帝 」 「 半帝 」 「 九条廃帝 」 などと呼ばれ、その陵墓もさまざまが伝えられ、この東山本町陵墓参考地にはかつて 「 廃帝社 」 と呼ばれる墳丘があったことから、仲恭天皇陵とも推定されています。

さて、天皇陵めぐりシリーズは、次回 6/16(金) で第5弾となり、第6弾は 7/5(水) 大原へ、第7弾は 8/5(土) 嵐電沿線の陵墓へと、まだまだ続きます、こうご期待ください! ( 笑 )
  

2016年10月28日

10/25(火) ≪ 料亭・高台寺土井 / 幕末ツアー ≫

月に一度の KBS京都ラジオ 「 ほっかほかラジオ 」 リスナーの皆さんと四季の京都を巡り、美味しい昼食をいただく 散策企画 「 おき・らくたび 」 が開催されまして、坂本龍馬が眠る京都霊山護国神社など東山エリアの 幕末ゆかりの史跡 を巡り、格式高い 料亭・高台寺土井 で美味しい料理をいただいてきました♪

高台寺・月真院
幕末史 : 御陵衛士屯所跡 ( 新選組を脱退した伊東甲子太郎が率いた )


歴史ある料亭・高台寺土井に到着しました。 さすが本館の入口は格式を感じさせてくれる門構えです! 今回、私たちは別館でのお食事です~。

■ 高台寺土井 : 公式HP http://www.doy.co.jp/


大きな広間です!





椀物、美味しかったです~ ( 笑 )





季節の味覚がギッシリです!



ご飯ですが、香の物が豪華です ( 笑 )



最後にデザート。 フルーツ盛りだくさんです~。



部屋の窓からは、美しい八坂の塔を見ることができました。



さて、高台寺土井で京料理をいただいた後、龍馬坂を上り、京都霊山護国神社で坂本龍馬、高杉晋作、木戸孝允 ( 桂小五郎 ) などの墓を参拝して、無事に終了しました。

当日のツアー模様は、来月第2月曜日 ( 11/14 ) のラジオ生放送でお伝えしますので、ぜひラジオも聴いてください~ ( 笑 )
  

Posted by 若村 亮  at 09:56Comments(0)歴史コラムらくたび日記京料理

2015年10月26日

10/22 ≪ 時代祭 - 有料観覧席 - ≫ in おき・らくたび

先週・木曜日は 時代祭 が執り行われ、KBS京都ラジオ 「 ほっかほかラジオ 」 のリスナーの皆さんと 京都を散策する企画 「 おき・らくたび 」 として、時代祭観覧 してきました!

時代祭


今年の話題のひとつは、江戸時代婦人列 で登場する 京都豪商・中村内蔵助衣装新調 されたこと。 黒い着物の下に着る 黄色中着新調 されましたので、パッと見た目ではわかりにくいですが・・・ ( 笑 )

豪商・中村内蔵助の妻


豊公参朝列 / 牛車


室町幕府執政列 / 足利将軍


神幸列 / 鳳輦 ( 桓武天皇を祀る )


約2000人の行列が都大路を練り歩き、まさに 歴史絵巻 のようでした!
  

2013年02月21日

相応和尚

 『 相応和尚 』

  平安前期の 天台僧 『 相応和尚 』 ( そうおうかしょう ) は、天長8 ( 831 ) 年に近江国で生まれ、15歳で 比叡山延暦寺 に入って 円仁弟子 として 天台密教 を修し、悪霊の調伏 ( ちょうぶく : 怨敵や魔物を打破して降伏されること ) や 清和天皇の歯痛を治す など数々の霊験を示しました。

  その後、貞観7 ( 865 ) 年、比叡山の南端に 不動明王 を本尊に祀る 無動寺 ( むどうじ ) を建立し、その辺り一帯の 無動寺谷 ( むどうじだに ) を中心に比叡山中を歩き巡って悟りを目指す 回峰行 ( かいほうぎょう ) を創始しました。

  国師号 の始まりとなる 最澄 ( さいちょう ) の 伝教大師 ( でんぎょうだいし ) と 円仁 ( えんにん ) の 慈覚大師 ( じかくだいし ) は、相応和尚が朝廷に上奏 ( じょうそう : 申請すること ) して賜ったことに始まります。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年08月06日

延暦寺・浄土院

 『 延暦寺・浄土院 』

  延暦寺東塔 から 西塔 へと歩いていくと、延暦寺を創建した 天台宗祖・最澄御廟 である 『 浄土院 』 ( じょうどいん ) と呼ばれる建物が、山深い比叡山内に佇んでいます。

  弘仁13 ( 822 ) 年、最澄は56歳で没し、仁寿4 ( 854 ) 年、最澄の遺骸を弟子の僧・円仁 ( 慈覚大師 ) が移して安置し、現在の比叡山内の浄土院へと歴史が受け継がれてきました。

  浄土院では現在、十二年籠山 と呼ばれる厳しい修行に励む僧が毎日、最澄に仕えるごとく奉仕しています。

地図 : 比叡山・浄土院
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年07月08日

文月

 『 文月 』

  陰暦七月異名『 文月 』 ( ふみづき ) といいます。

  文月の語源は、7月7日七夕 ( たなばた ) において短冊に歌や字を書いて献じたり、書物を夜風にさらす風習があったことに由来すると言われています。

  また、稲の穂が膨らむ月 であることから ほふみづき ( 穂含み月 ) や ふくみづき ( 含み月 ) が転じて、ふみづき ( 文月 ) になったとも言われています。

  現在の新暦では7月は夏ですが、文月 といえば 秋をあらわす季語 になります。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年07月07日

七夕

 『 七夕 』

  7月7日 『 七夕 』 です。

  古来中国では陰暦7月7日夜、女子が手芸の上達を祈る行事・乞巧奠 ( きっこうでん ) と、天の許しで織女と牽牛が1年に1度会えるという伝説にちなむ 星祭 が行なわれ、この2つの風習が奈良時代に日本へ伝来しました。

  また、古来日本でも水辺の棚で乙女が機 ( はた ) を織り、神を迎えて禊 ( みそぎ ) を行なう信仰行事・ 棚機女 ( たなばたつめ ) が行なわれており、これら3つが重なって日本独自の 「 七夕 」 となりました。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月30日

初物

 『 初物 』

  その季節の最初にとれた野菜・果物・穀物・魚などを 『 初物 』 ( はつもの ) といい、この初物を好んで食べる人のことを 初物食い ( はつものぐい ) といいます。

  民間伝承では ≪ 初物七十五日 ≫ ( はつものしちじゅうごにち ) といわれ、初物を食べれば 寿命が七十五日延びる といいます。

  また ≪ 初物を食べた時は東を向いて笑う ≫ ともいわれ、太陽の昇る東の方角に感謝して初物をいただくと 福を招く ことができると伝えられています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月29日

白山神社・歯痛平癒

 『 白山神社・歯痛平癒 』

  江戸時代中頃のこと、最後の女性天皇として知られる第117代・後桜町天皇歯痛 で悩んでいたところ、宮中の女官が 白山神社 ( 京都・麸屋町通押小路下ル ) から 神箸 ( しんばし ) を持ち帰り、さらに 神塩 ( しんえん ) を天皇の痛む歯につけたところ、たちまち 歯痛が治った と伝えられています。

  以来、白山神社は 歯痛平癒のご利益 があるとされ、多くの参拝者が参詣に訪れるようになりました。 現在、長寿箸 などの授与も行われています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月28日

白山神社

 『 白山神社 』

  平安末期、加賀国 ( 石川県 ) に祀られた 白山神社 から、平家の武将による乱暴狼藉に怒った僧らが 神輿 三基 を担いで京都の内裏 ( 御所 ) まで押し寄せましたが、公家は取り合わず、武士によって追い払われました。

  白山神社からの一行は京都から逃げる際に、神輿 一基 が動かなくなったことから京都に置き去りにして立ち去ったといい、残された神輿を祀って京都の 『 白山神社 』 ( はくさんじんじゃ ) が創建されたと伝えられています。

地図 : 白山神社
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月27日

神田明神

 『 神田明神 』

  平安中期の武将・平将門 ( たいらのまさかど ) は、関東で内乱 ( 平将門の乱 ) を起こして一時関東を支配下に置いて新皇を称しましたが、平貞盛や藤原秀郷らに討たれて命を落としました。

  平将門の首京都 に送られて 晒し首 となりましたが、関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、東京・大手町には飛んで行った平将門の首が落ちた場所を 首塚 として永く供養しています。

  また、京都・四条西洞院近くに京都・神田明神 が祀られ、ここに 平将門の首が晒された と伝えられています。

地図 : 京都・神田明神
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月24日

別当大師

 『 別当大師 』

  平安初期の僧・光定 ( こうじょう ) は、伊予国北部 ( 愛媛県松山市北部 ) に生まれ、伝教大師・最澄弟子 となって 延暦寺大乗戒壇院 の建立に尽力しました。

  最澄亡きの後は天台宗の経営と維持に生涯を尽くすなど 天台宗の歴史上で忘れてはならない高僧 となり、延暦寺の総別当 ( 事務の総括 ) を任命されたことから 『 別当 ( べっとう ) 大師 』 の称号が与えられました。

  天安2(858)年、80歳で入寂し、墓は尊敬して止まなかった伝教大師・最澄の廟所 ( 浄土院 ) の隣に寄り添うようにして現在も佇んでいます。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月20日

徳川吉宗

 『 徳川吉宗 』

  江戸幕府8代将軍 『 徳川吉宗 』 ( よしむね ) は 徳川御三家紀州藩 ( 現在の和歌山県 ) に生まれ、7代将軍 徳川家継 ( いえつぐ ) の死によって 徳川宗家 の血筋が途絶えると、宗家以外から初めて将軍に就任しました。

  当時の幕府財政は破綻寸前の危機的状況にありましたが、増税質素倹約 による改革を断行して 財政再建 を果たしました。

  庶民の生活を安定させるために 米価の調節 に尽力し、米将軍 とも呼ばれました。

  寛延4 ( 1751 ) 年 6月20日 死去、享年68。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月19日

南蛮寺

 『 南蛮寺 』

  天文18 ( 1549 ) 年に日本へ伝来した キリスト教 は、織田信長が南蛮文化に理解を示したこともあり、その勢力を急速に拡大しました。

  日本各地に建てられた教会堂は 『 南蛮寺 』 ( なんばんじ ) と呼ばれ、京都には三階建ての壮麗壮大な南蛮寺が建立されました。

  しかし、急激な勢力拡大のなかで宣教師による信仰の強制、社寺の破壊、僧侶への迫害などが問題となり、天正15 ( 1587 ) 年 6月19日、ついに 豊臣秀吉キリシタン禁令 を発布することになりました。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月15日

巴の文様

 『 巴の文様 』

  神紋や家紋に見られる 『 巴 』 ( ともえ ) は、日本の伝統的な文様のひとつであり、コンマ 【 ,】 や勾玉 ( まがたま : 古代の宝器 ) のような形をしています。

  「 ともえ 」 の語源は 「 鞆絵 」 であり、弓を射る時に使う鞆 ( とも ) を形取ったものといわれています。

  「 巴 」 を円形に配すると 二つ巴 ( ふたつどもえ ) や 三つ巴 ( みつどもえ ) となり、これらの文様は 水が渦を巻いている形 をしていることから、火災除け の願いを込めて、社寺や民家の屋根瓦や土蔵などに好んで用いられています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月05日

池田屋事件

 『 池田屋事件 』

  元治元 ( 1864 ) 年 6月5日夜半、新選組 は三条小橋の旅籠・池田屋 において 尊王攘夷派の志士 20数名が密議を行なっていることを察知し、局長・近藤勇 率いる隊士数名が池田屋を襲撃し、約2時間に及ぶ激闘の末、尊王攘夷派に大打撃を与えました。

  この 『 池田屋事件 』 によって尊王攘夷派の有力な志士が数多く戦死しましたが、三条大橋南西2個目の擬宝珠 ( ぎぼし ) に現在も残る傷は、この池田屋事件の激闘による 刀傷 と伝えられています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月03日

黒船来航

 『 黒船来航 』

  嘉永6 ( 1853 ) 年 6月3日、アメリカ から ペリー 率いる 四隻の黒船 ( 蒸気船 ) が相模国浦賀沖 ( 神奈川県 ) に来航し、江戸幕府に米大統領国書を渡して 開国 を迫りました。 このペリー来航によって日本は 幕末 と呼ばれる動乱の時代へ突入しました。

 太平の眠りをさます上喜撰
     たった四はいで夜も寝れず

高級茶の 上喜撰 ( じょうきせん ) をたった四杯飲んだだけで・・・、つまり 蒸気船 ( 黒船 ) がたった四隻来航しただけで、日本は夜も眠れない大混乱に・・・、という当時の様子を風刺した狂歌です。

  武力を背景としたアメリカの圧力的な外交に屈するように幕府は 日米和親条約 を締結し、長い鎖国体制が崩れました。 また、幕府内でも 将軍継嗣問題 から対立が生じ、幕政は転換期を迎えました。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(2)歴史コラム

2012年06月02日

本能寺

 『 本能寺 』

  応永22 ( 1415 ) 年、日隆上人 によって創建された法華宗本門流大本山 『 本能寺 』 ( ほんのうじ ) は、当初 本応寺 と称していましたが、永享5 ( 1433 ) 年、六角大宮に移転し、本能寺 と寺名を改めました。

  広大な寺域を持つ大寺院となりましたが、天正10 ( 1582 ) 年 6月2日 未明、本能寺に宿泊する 織田信長明智光秀 が急襲し、織田信長は天下統一間近で命を落とし ( 本能寺の変 )、本能寺は炎上して灰燼に帰しました。 本能寺は、その後に移転再建されて現在に至っています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年06月01日

更衣

 『 更衣 』

  季節に応じて衣服や調度をかえることを 「 衣替え 」 といい、現在では一般的に 6月1日 になると 夏の服装 に、10月1日 になると 冬の服装 に衣替えをしています。

  「 衣替え 」 は、古くは 『 更衣 』 ( こうい ) といい、平安時代 には 4月1日10月1日 にそれぞれ夏装束・冬装束に改めていました。

  また、天皇の着替えに従事した女官の職名「 更衣 」 といい、後に天皇の寝所に奉仕する女官で 「 女御 」 ( にょうご ) に次ぐ女官を 「 更衣 」 と呼ぶようになりました。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月31日

四苦八苦

 『 四苦八苦 』

  四苦八苦 ( しくはっく ) とは、本来は “ 人間のあらゆる苦しみ ” をあらわす仏教用語です。

  四苦生老病死 ( しょうろうびょうし ) という、人間として逃れられない必然的な苦しみのこと。

  八苦 は四苦に加えて、愛別離苦 ( あいべつりく : 愛する人と別れる苦しみ )、怨憎会苦 ( おんぞうえく : 怨み憎む人と出会う苦しみ )、求不得苦 ( ぐふとくく : 求めるものが得られない苦しみ )、五陰盛苦 ( ごおんじょうく : 物事に執着する苦しみ ) という、精神的な苦しみのことです。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月30日

蚕の社

 『 蚕の社 』

  かつて 太秦 に定住した 豪族・秦氏 が水の神を祀ったのが始まりと伝えられる 『 蚕の社 』 ( かいこのやしろ ) は、正しくは 「 木島坐天照御魂神社 」 ( このしまにますあまてるみたまじんじゃ ) といいます。

  秦氏は養蚕・機織・染色など大陸の先進的な文化・技術を伝えた渡来系豪族であり、境内の摂社に 養蚕神社 があることから通称 「 蚕の社 」 と呼ばれています。

  境内の池には、京都三珍鳥居のひとつ 「 三鳥居 」 ( みつどりい ) があります。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月29日

桂離宮

 『 桂離宮 』

  庭園と建築の完成美をみせる 『 桂離宮 』 ( かつらりきゅう ) は、江戸初期の元和6 ( 1620 ) 年頃から、八条宮家・初代の 智仁 ( としひと ) 親王 によって 八条宮家の別荘 として造営がはじまり、約35年の歳月をかけて八条宮家・2代の 智忠 ( としただ ) 親王 の代に完成したと伝えられています。

  桂川より引き入れた水をたたえる池を中心とし、池の周りに書院や茶屋が見事に配された、庭園と建築の総合芸術 と称されています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月24日

道元禅師

 『 道元禅師 』

  鎌倉初期、『 道元禅師 』 ( どうげんぜんじ ) は中国へ渡って修行を重ね、後に 日本曹洞宗開祖 となりました。

  真の仏道 を求めて修行を重ねた道元禅師は何ひとつ持たず、ただ “ 只管打坐 ” ( しかんたざ : ただひたすらに坐るの意 ) という 坐禅の教え のみを身につけて帰国しました。

  師匠の 「 深山幽谷に住み、真の弟子を育てよ 」 という言葉に基づき、道元禅師は 寛元2 ( 1244 ) 年、永平寺 ( 曹洞宗総本山 : 福井県 ) を開いて多くの弟子を育て、今日に続く曹洞宗の礎を築きました。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月22日

衣服

 『 衣服 』

  縄文・弥生・古墳時代など、昔の日本人がどのような衣服を身につけていたのか、歴史書の 『 古事記 』 や 『 日本書紀 』 の記述から、また古墳の埴輪などから推測できる部分もありますが、現存する資料や裏付けがほとんど残されておらず、詳細はわかっていません。

  その後、飛鳥時代 に築かれた 高松塚古墳の壁画 に男子と女子の絵が描かれており、飛鳥時代の人びとの姿が描かれた唯一の遺構であり、貴重な史料となっています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月21日

うどん

 『 うどん 』

  『 うどん 』 は江戸時代の中頃に食文化として広がったと言われていますが、弘法大師空海 の出身地であり、お遍路さんで知られる香川県では、空海が唐より密教とともに日本に伝えたと語られ、現在も 讃岐うどん として親しまれています。

  当時、唐から伝えられたのは小麦粉の生地に餡などを包んだ 「 こんとん 」 と呼ばれる唐菓子とされ、それを温めて食べた 「 うんとん 」「 うどん 」 に通じる食べ物と考えられています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月20日

油を売る

 『 油を売る 』

  仕事の途中で怠けて無駄話をして時間を浪費する ことを 『 油を売る 』 といいますが、これは江戸時代の頃から使われるようになった言葉のようです。

  昔、油売りの商人 が客のところへ油を届けた際、枡 ( ます : 容器 ) で油を量ってから客の枡へと油を注ぎましたが、外にこぼさないようにゆっくりと時間をかけて注ぎ、さらに昔の油はとろりと 粘性が高い ことから油がスーッと糸を引いてなかなか切れないことから、すべての油を注ぎ終えるまで客と 世間話 をしながら待っていたといいます。

  そのような、ゆっくりと世間話をしながら仕事をしていた油売りの様子 から 『 油を売る 』 という言葉が生まれたといわれています。 ( 諸説あり )
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月19日

稲荷の狐

 『 稲荷の狐 』

  伏見稲荷大社 の主祭神・宇迦之御魂神 ( うかのみたまのかみ ) は、稲を神格化した穀物神 として古くから 五穀豊穣の神様 として崇められ、中世以降は 商売繁盛の神様 としても厚い信仰を集めてきました。

  宇迦之御魂神は別名・御餞津 ( みけつのかみ ) とも呼ばれ、狐の古い呼び名 「 けつ 」 より 「 三狐神 」 ( みけつのかみ ) と解して 稲荷神の使い であるとされ、全国に数ある稲荷社の社前には狐が鎮座しています。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月10日

遣唐使

 『 遣唐使 』

中国・唐の時代、海外の情勢大陸の先進的な仏教・文化・技術 を摂取する目的で中国・唐へ派遣された 公式使節『 遣唐使 』 ( けんとうし ) といい、舒明2 ( 630 ) 年第1次・遣唐使 が派遣され、寛平6 ( 894 ) 年菅原道真の建議 によって 停止 されるまで、16回 にわたって派遣されました。

  第18次・遣唐使 には、のちに 天台宗祖 となる 最澄 や、真言宗祖 となる 空海 も同行するなど、仏教文化の伝播 に大きな役割を果たしました。
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム

2012年05月03日

流鏑馬

 『 流鏑馬 』

  『 流鏑馬 』 ( やぶさめ ) は疾走する馬上から方形の板の的に 鏑矢 ( かぶらや : 射た時に風を切って音を立てる矢 ) を射る技術・儀式で、古くは 「 矢馳せ馬 」 ( やばせうま ) と呼ばれた日本の伝統的な騎射のひとつです。

  平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに行われ、武士の嗜み として幕府の行事や儀式にも組み込まれ、また神事のひとつとして神社において奉納されるようになりました。

『 流鏑馬神事 』  下鴨神社
   5月3日 13:00~15:30
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)歴史コラム