2007年06月30日

水無月

 『 水無月 』

  夏越祓 ( なごしのはらい : 今日 6月30日 ) に欠かせない和菓子といえば 『 水無月 』 ( みなづき ) です。

  外郎 ( ういろう ) や 葛 ( くず ) で作られた水無月の白い部分は 暑気を払う氷 をあらわし、上にのせた甘い煮小豆は 疫病の悪魔祓い の意味合いがあります。

  昔、氷室 ( ひむろ : 冬の氷を夏まで保存する小屋 ) の氷を夏越祓に口にして暑気を払う儀式が宮中や幕府で行なわれており、貴重な氷を口にできない庶民は氷を模した菓子 「 水無月 」 を作って口にしてきました。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)文化コラム

2007年06月29日

夏越祓

 『 夏越祓 』

  京都の初夏の風物詩 『 夏越祓 』 ( なごしのはらい )。

  前半年 ( 1~6月 ) の罪や穢れ ( けがれ ) を祓い、後半年 ( 7~12月 ) の無病息災を祈る 「 夏越祓 」 は、奈良時代からの伝統を受け継ぐ行事です。

  6月30日 ( 明日 )、自分の名前を記して息を吹きかけた紙の人形を神社に持参し、境内に設けられた大きな 「 茅の輪 」 ( ちのわ ) をくぐって 厄除け悪疫退散 を願います。

  この風習は、茅の輪を腰や玄関に懸ける ことで 疫病の難を逃れた という 「 蘇民将来伝説 」 に由来しています。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)祭事コラム

2007年06月28日

棲霞観

 『 棲霞観 』

  平安初期に 嵯峨天皇の皇子 として生まれ、源氏姓 を授けられて皇族を離れて臣籍 ( しんせき : 臣下の身分 ) となった貴族の 源融 ( みなもとのとおる ) は、嵯峨野に 『 棲霞観 』 ( せいかかん ) と呼ばれる山荘を営んでいました。

  源融の没後に 棲霞観棲霞寺 ( せいかじ ) に改められ、貫和元 ( 985 ) 年には、僧の “ ちょう然 ” が釈迦如来像を中国より持ち帰り、寺名を 清凉寺 ( せいりょうじ ) としました。

  清凉寺の境内には、源融の墓と伝えられる墓所が現存しています。

地図 : 清凉寺  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)嵐山・嵯峨野

2007年06月27日

積翠園

 『 積翠園 』

  東山七条の妙法院の北側に建つ 武田病院 の敷地内には広大な池を中心とする庭園 『 積翠園 』 ( しゃくすいえん ) があり、平安時代末期に 平重盛 ( たいらのしげもり : 平清盛の長男 ) の 小松邸 の庭園として作庭されたと伝えられています。

  大池には大島と小島を配し、大島の近くに配された5つの石は宝船が港に停泊している様をあらわし、夜泊石 ( よどまりいし ) と呼ばれています。

  積翠園は、武田病院の受付で拝観したい旨を伝えると、自由に見学することができます。

地図 : 積翠園  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)清水寺付近

2007年06月26日

怨霊の祟り

 『 怨霊の祟り 』

  藤原時平讒言 ( ざんげん : 嘘の告げ口 ) によって九州へ左遷された 菅原道真 は、そのまま 非業の死 を遂げました。

  以後、都では 天変地異 が次々と起こり、疫病日照り が続き、また 藤原時平醍醐天皇の皇太子 が相次いで 急死 しました。

  そして延長8 ( 930 ) 年 6月26日 ( 今日 )、御所の清涼殿に雷が落ち、2人の貴族が即死する事件が起こりました。

  これらは 菅原道真の怨霊による祟り とされ、その怒りを鎮めるために北野天満宮が創建され、神様として祀られました。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)歴史コラム

2007年06月25日

菅原院天満宮神社

 『 菅原院天満宮神社 』

  京都御苑の下立売御門の向かいに鎮座する 『 菅原院天満宮神社 』 ( すがわらいんてんまんぐうじんじゃ ) は、平安前期の政治家として活躍した 菅原道真誕生地 のひとつとされています ( 誕生地は菅大臣神社や吉祥院天満宮など諸説あり )。

  当地は 菅家邸宅跡 と伝えられ、神社の本殿には菅原道真の 是善 ( これよし )、祖父清公 ( きよきみ )、曽祖父古人 ( ふるひと ) の三代が祀られています。

  菅原道真は、承和12 ( 845 ) 年 6月25日 ( 今日 ) に誕生しました。

地図 : 菅原院天満宮神社  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)御所・糺ノ森

2007年06月24日

山ばな 平八茶屋

  今日はあいにくの雨模様でしたが、毎月開催している近鉄文化サロンの 『 京都の隠れた寺と味めぐり 』 に行ってきました。

松ヶ崎をスタートし、大黒天さんを参拝し、若狭街道名物として430年の歴史を誇る平八茶屋で 麦飯とろろ汁 をいただき、蓮華寺、三宅八幡さんへ行ってきました。

平八茶屋の麦飯とろろ汁、美味しかった~ (^・^)  

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2007年06月24日

加藤清正

 『 加藤清正 』

  安土桃山から江戸前期にかけて活躍した武将で、初代の肥後熊本藩主 となった 『 加藤清正 』 ( かとうきよまさ ) は、幼少より豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦して武功をたてました。

  とくに近江国 ( 現在の滋賀県 ) の 賤ヶ岳 ( しずがたけ ) 附近で行われた、羽柴秀吉 ( のちの豊臣秀吉 ) と 柴田勝家 の戦いにおいて活躍し、賤ヶ岳七本槍 のひとりに数えられています。

  永禄5 ( 1562 ) 年 6月24日 ( 今日 ) に誕生し、慶長16 ( 1611 ) 年 6月24日 ( 今日 ) に没しています。  

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2007年06月23日

帰りました!

東京から帰ってきました。

ほっと安らぐ瞬間です、笑。

  

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2007年06月23日

平重衡

 『 平重衡 』

  文武に優れた武将 『 平重衡 』 ( しげひら : 平清盛の五男 ) は、都を落ちて転戦する中、一の谷の戦いで源氏に捕らえられました。

  武士として最期を覚悟する平重衡の潔い態度に感じ入った源頼朝は、その身を助けることに尽力しますが、過去の焼き討ち ( 平重衡の襲撃によって東大寺や興福寺が炎上 ) を恨む南都が身の引渡しを要求し、文治元 ( 1185 ) 年 6月23日 ( 今日 )、南都勢力によって平重衡は 斬首 となりました。

  平重衡は、妻との惜別の地 となった山科日野にある墓で静かに眠っています。

地図 : 平重衡墓  

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2007年06月23日

都庁

高い!

  

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2007年06月23日

快晴の東京

真夏の青空が広がる東京です。

東京はんなり講座の二日目、頑張ってきます〜。

ちなみに左の大きなビルが東京都庁です。

デカくて写真におさまりません、笑。

  

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2007年06月22日

茅の輪

左周り、右周り、そして左周りと3回くぐり、しっかりと穢れを祓いました(笑)。

さあ、今から東京へ出発です!

新宿において「東京はんなり講座」が今日と明日、行われます。

いい講座になるよう、頑張ってきます〜笑。

  

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2007年06月22日

護王神社の茅輪

今日は金曜日。

ラジオに出演した帰りに、KBS京都の近くにある護王神社に寄ってきました。

罪や穢れを祓う茅輪(ちのわ)が設けられていました!


  

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2007年06月22日

桂昌院

 『 桂昌院 』

  江戸幕府 3代将軍 徳川家光 ( いえみつ ) の 側室 であり、5代将軍 徳川綱吉 ( つなよし ) の 生母 として大奥で権勢を振るった 『 桂昌院 』 ( けいしょういん ) は、寛永元 ( 1627 ) 年に 西陣の八百屋の娘 として生まれ、家光の側室となった 「 お万の方 」 に仕えて江戸城大奥に入りました。

  元禄15 ( 1702 ) 年には女性としては最高位となる “ 従一位 ” の官位を賜り、 「 一位様 」 と称されました。

  京都の社寺再興にも尽力し、宝永2 ( 1705 ) 年 6月22日 ( 今日 ) 死去、享年79。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)人物コラム

2007年06月21日

 『 螢 ( ほたる )

  初夏の夜、清流のほとりで淡く明滅しながら優雅に宙を舞う 『 螢 』 ( ほたる )。

  日本に生息する約45種の中では 源氏螢 ( ゲンジボタル ) と 平家螢 ( ヘイケボタル ) がよく知られています。

  平安末期、ちょうど螢が舞う今頃、源平争乱 に敗れた平家一門の亡骸の上を、慌しく明滅する 小さな螢 ( = 敗者の平家 ) と、ゆっくり明滅する 大きな螢 ( = 勝者の源氏 ) が入り乱れて宙を舞ったと伝えられ、それに由来して 源氏螢平家螢 と名付けられたようです。  

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2007年06月20日

嵐電ツアーの道中記、公開中!


6月10日 ( 日 ) に嵐電を貸しきって行われたツアーの模様を公開しました。
ぜひ、< らくたび講座 道中記 > をご覧ください。

ツアーの模様を、ご参加いただいた方よりブログでご紹介いただきました。
ありがとうございました!
   ★ maiky さん   ★ tkei さん   ★ まめ さん  

Posted by 若村 亮  at 20:28Comments(7)TrackBack(1)らくたび日記

2007年06月20日

徳川吉宗

 『 徳川吉宗 』

  江戸幕府8代将軍 『 徳川吉宗 ( よしむね ) 徳川御三家紀州藩 ( 現在の和歌山県 ) に生まれ、7代将軍 家継 ( いえつぐ ) の死によって 徳川宗家 ( 本家 ) の血筋が途絶えると、宗家以外から初めて将軍に就任しました。

  当時の幕府財政は破綻寸前の危機的状況にありましたが、増税質素倹約 による改革を断行して 財政再建 を果たしました。

  庶民の生活を安定させるために 米価の調節 に尽力し、“ 米将軍 ” とも呼ばれました。

  寛延4 ( 1751 ) 年 6月20日 ( 今日 ) 死去、享年68。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(2)TrackBack(0)人物コラム

2007年06月19日

南蛮寺

 『 南蛮寺 』

  天文18 ( 1549 ) 年に日本へ伝来した キリスト教 は、織田信長が南蛮文化に理解を示したこともあり、その勢力を急速に拡大しました。

  日本各地に建てられた教会堂は 『 南蛮寺 』 ( なんばんじ ) と呼ばれ、特に京都には三階建ての壮麗壮大な南蛮寺が建立されました。

  しかし、急激な勢力拡大のなかで宣教師による信仰の強制、寺社の破壊、僧侶への迫害などが問題となり、天正15 ( 1587 ) 年 6月19日 ( 今日 )、ついに 豊臣秀吉キリシタン禁令 を発布することになりました。

地図 : 南蛮寺跡  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)二条城・繁華街

2007年06月18日

徳川和子

 『 徳川和子 』

  幕府と朝廷の関係を緩和させる政策として、元和6 ( 1620 ) 年 6月18日 ( 今日 )、江戸幕府二代将軍 ・ 徳川秀忠の娘 徳川和子 ( とくがわまさこ : のちの東福門院 ) が 後水尾天皇 ( ごみずのおてんのう ) のもとに 入内 ( じゅだい : 天皇の后として内裏に入ること ) しました。

  二条城 から 京都御所 へ向かう徳川和子の道中行列は、入内に際しての 莫大な持参金荷物 によって長い行列となり、先頭が御所へ到着しても最後尾は二条城を出ていなかった と伝えられています。

地図 : 二条城と京都御所  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)二条城・繁華街

2007年06月17日

旧日本銀行 京都支店

 『 旧日本銀行 京都支店 』

  三条通は古くから東海道の西の起点として賑わい、明治になると 銀行保険会社郵便局 などの 近代建築 が建ち並びました。

  明治39 ( 1906 ) 年には日本近代建築の祖と称される 辰野金吾 ( たつのきんご ) によって、赤の煉瓦と白の花崗岩を装飾的に配した 日本銀行 京都支店 が建設されました。

  その後の昭和40 ( 1965 ) 年、京都支店は河原町二条に移転し、三条通の旧京都支店の建物は博物館として保存され、現在は 京都府京都文化博物館京別館 として公開されています。

地図 : 京都文化博物館  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(2)TrackBack(0)二条城・繁華街

2007年06月16日

京の五花街

 『 京の五花街 』

  京都には、祇園甲部 ( ぎおんこうぶ )、祇園東宮川町先斗町 ( ぽんとちょう )、上七軒 ( かみしちけん ) の五花街があります。

  祇園甲部と祇園東は、八坂神社へ参拝する人びとをもてなす腰掛茶屋として始まり、上七軒は北野天満宮へ参拝する人びとをもてなす腰掛茶屋として始まりました。

  祇園甲部、祇園東、上七軒の紋章である “ つなぎ団子 ” は、人びとから愛された茶屋の団子をシンボル化した紋章であり、また “ お茶屋 ” という名称も 腰掛茶屋の名残り です。

『 第14回 京都五花街 合同伝統芸能特別公演 』  京都会館
   6月16日、17日 14時~16時半
   五花街に伝わる伝統芸能を一堂に集めての合同公演。
   合同演目 「 舞妓の賑い 」 は、五花街の舞妓が勢揃い。
   料金 ( 全席指定 予約制 )
     特等席 9000円
     1等席 8000円
     2階席 5000円  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)京都コラム

2007年06月15日

浄瑠璃寺

  昨日に引き続き、今日も池泉庭園の撮影に行ってきました。
  京都市内から約1時間半、南山城にある 浄瑠璃寺 ( じょうるりじ ) です。

  永承2 ( 1047 ) 年、薬師如来を本尊とする寺院が建立され、薬師如来がつかさどる東方浄瑠璃浄土を現世にあらわしたことから浄瑠璃寺と称されました。 池を中心に、東岸に 東方浄瑠璃世界 をあらわした薬師如来を祀る三重塔が位置し、西岸に 西方極楽世界 をあらわした九体の阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂が位置し、理想の世界である浄土が現世にあらわされています。


  浄瑠璃寺 山門


  阿弥陀堂 ( 国宝 )


  


  美しい草花もたくさん!














  池越しに眺める三重塔


  三重塔 ( 国宝 )



  さあ、明日は午後から、授業を担当している 京都伝統工芸大学校 の学生とともに、課外授業 で < 京都伝統工芸館 - 三十三間堂 - 清水寺 ・・・ 産寧坂 ・ 二年坂 ・・・ 高台寺 > とまわってきます。 大学のオープンキャンパスも兼ねているので、来年の新入生になるはず ( ? ) の皆さんも一緒にめぐることになります!

  もちろん終わり次第、明日の夜は < 第10回 京都講座 > です!  

Posted by 若村 亮  at 20:39Comments(0)TrackBack(0)らくたび日記

2007年06月15日

浄瑠璃寺

今日は京都市内を離れて、南山城の浄瑠璃寺に来ています。

池を中心に西に阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂(写真奥)が、東に薬師如来を祀る三重塔が配され、西方極楽浄土と東方浄瑠璃浄土があらわされています。

  

Posted by 若村 亮  at 13:24Comments(2)TrackBack(0)携帯から京都

2007年06月15日

和菓子の日

 『 和菓子の日 』

  6月16日 ( 明日 ) は 『 和菓子の日 』 ( 全国和菓子協会制定 ) です。

  その由来は、嘉祥元 ( 848 ) 年 6月16日、宮中において16種の菓子を供えて疫病退散を祈願する 『 嘉祥の儀 』 ( かじょうのぎ ) がはじまったと伝えられ、室町時代以降は武士の間でもこの儀式が重んじられました。

  江戸時代、幕府では江戸城の大広間に2万個を越える菓子が並べられ、大名や旗本が将軍から菓子を賜る儀式が行われました。

  『 嘉祥食 』 ( かじょうぐい ) とも呼ばれ、明日は和菓子を食べる吉日です。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)文化コラム

2007年06月14日

白沙村荘

  今日は “ 京つう ” のブログ 『 白沙村人別録 』 を書いておられます、白沙村荘 ( はくさそんそう ) へ取材に出掛けました。

  天気はあいにくの雨でしたが、庭園の水や苔は生き生きとし、素晴らしい撮影ができました。 橋本さん、お世話になりました。

























  この写真は、若村が自前のデジカメで撮影したものです。 もちろん、書籍用には、プロのカメラマンが撮影した素晴らしい写真が掲載されます!

  2007年9月上旬発売、らくたび文庫 『 京の庭NAVI -池泉庭園編- 』 をご期待ください。  

Posted by 若村 亮  at 21:00Comments(2)TrackBack(0)らくたび日記

2007年06月14日

蛇塚古墳

 『 蛇塚古墳 』

  太秦の住宅街に突如として現れる 『 蛇塚古墳 』 ( へびづかこふん ) は、巨石を組んで構成された 横穴式石室 の規模としては 京都府下最大 で、全国的にも玄室 ( げんしつ : 古墳内の棺をおさめる部屋 ) の床面積では明日香 ( 奈良県 ) の石舞台に次ぐ第4位の規模を誇っています。

  元は全長75mの 前方後円墳 だったと考えられ、早くに古墳を覆う土が失われて石室が露出してしまいました。

  “ 蛇塚 ” の名称は、かつて 石室内に蛇が多く棲んでいた ことに由来すると伝えられています。

地図 : 蛇塚古墳  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)太秦周辺

2007年06月13日

天王山の戦い

 『 天王山の戦い 』

  備中高松 ( 現、岡山県 ) で毛利の軍勢と戦っていた 羽柴秀吉 ( のちの豊臣秀吉 ) は、織田信長の死 を知ると急いで毛利軍と和議を結び、明智光秀を討つ ために京へ引き返しました。

  本能寺の変から11日後の 6月13日 ( 今日 )、京と大坂の境、大山崎の 天王山 付近において 羽柴軍と明智軍による天下分け目の合戦 となりました。

  戦いは圧倒的な軍勢を誇った羽柴軍が圧勝し、光秀は近江の坂本城へ敗走する途中、小栗栖 ( おぐるす ) の竹薮 ( たけやぶ ) で落武者狩りによって命を落としました。

地図 : 小栗栖の明智薮  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(1)TrackBack(0)歴史コラム

2007年06月12日

藤原姓

 『 藤原姓 』

  大化元 ( 645 ) 年 6月12日 ( 今日 )、三韓 ( 新羅、百済、高句麗 ) から来日した使者を迎える儀式が執り行われていた宮中において、中大兄皇子 ( なかのおおえのおうじ : のちの天智天皇 ) と 中臣鎌足 ( なかとみのかまたり ) が 蘇我氏を討ち、そこから古代政治史上の一大改革である 「 大化の改新 」 が始まりました。

  この功績によって中臣鎌足は天智天皇より 『 藤原 』 の姓を賜り、以後、藤原氏は名門氏族として江戸末期までの長きにわたって 貴族社会の頂点に君臨 しました。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(2)TrackBack(0)歴史コラム

2007年06月11日

入梅

 『 入梅 』

  6月11日 ( 今日 ) は 雑節 ( ざっせつ : 季節の変わり目 ) のひとつ 『 入梅 』 ( にゅうばい ) で、暦の上では “ 梅雨に入る日 ” となります。

  古く中国では “ 黴 ( かび ) の生えやすい時期の雨 ” より 『 黴雨 』 ( ばいう ) と呼び、“ 梅の熟れる時期の雨 ” でもあるため 『 梅雨 』 ( ばいう ) と変化して日本に伝えられたようです。

  『 梅雨 』「 つゆ 」 と読むようになったのは江戸時代以降のことで、梅の実が熟れて潰れることから 『 潰ゆ 』 ( つゆ ) となった、など諸説があるようです。  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)TrackBack(0)季節コラム