2011年12月10日
太子道
2008年08月27日
文徳天皇
『 文徳天皇 』
第55代・文徳天皇 ( もんとく ) は、寵愛していた更衣・静子 ( せいし ) が生んだ第1皇子・惟喬親王 ( これたか ) を皇太子とすることに期待を寄せました。
しかし、次第に権勢を強めていた 藤原良房 ( よしふさ ) の圧力に屈し、良房が文徳天皇に嫁がせていた娘・明子 ( めいし ) が生んだ第4皇子・惟仁親王 ( これひと : 第56代・清和天皇 ) を皇太子とするなど、実権を良房に握られたまま、天安2 ( 858 ) 年 8月27日、32歳の若さで崩御しました。
地図 : 田邑陵 ( たむらのみささぎ : 文徳天皇陵 )
第55代・文徳天皇 ( もんとく ) は、寵愛していた更衣・静子 ( せいし ) が生んだ第1皇子・惟喬親王 ( これたか ) を皇太子とすることに期待を寄せました。
しかし、次第に権勢を強めていた 藤原良房 ( よしふさ ) の圧力に屈し、良房が文徳天皇に嫁がせていた娘・明子 ( めいし ) が生んだ第4皇子・惟仁親王 ( これひと : 第56代・清和天皇 ) を皇太子とするなど、実権を良房に握られたまま、天安2 ( 858 ) 年 8月27日、32歳の若さで崩御しました。
地図 : 田邑陵 ( たむらのみささぎ : 文徳天皇陵 )
2008年05月18日
蚕の社
『 蚕の社 』
かつて 太秦 に定住した 豪族・秦氏 が水の神を祀ったのが始まりと伝えられる 『 蚕の社 』 ( かいこのやしろ ) は、正しくは 「 木島坐天照御魂神社 」 ( このしまにますあまてるみたまじんじゃ ) といいます。
秦氏は養蚕・機織・染色など大陸の先進的な文化・技術を伝えた渡来系豪族であり、境内の摂社に 養蚕神社 があることから通称 「 蚕の社 」 と呼ばれています。
境内の池には、京都三珍鳥居のひとつ 「 三鳥居 」 ( みつどりい ) があります。
地図 : 蚕の社
かつて 太秦 に定住した 豪族・秦氏 が水の神を祀ったのが始まりと伝えられる 『 蚕の社 』 ( かいこのやしろ ) は、正しくは 「 木島坐天照御魂神社 」 ( このしまにますあまてるみたまじんじゃ ) といいます。
秦氏は養蚕・機織・染色など大陸の先進的な文化・技術を伝えた渡来系豪族であり、境内の摂社に 養蚕神社 があることから通称 「 蚕の社 」 と呼ばれています。
境内の池には、京都三珍鳥居のひとつ 「 三鳥居 」 ( みつどりい ) があります。
地図 : 蚕の社
2007年12月12日
太子道
2007年06月14日
蛇塚古墳
『 蛇塚古墳 』
太秦の住宅街に突如として現れる 『 蛇塚古墳 』 ( へびづかこふん ) は、巨石を組んで構成された 横穴式石室 の規模としては 京都府下最大 で、全国的にも玄室 ( げんしつ : 古墳内の棺をおさめる部屋 ) の床面積では明日香 ( 奈良県 ) の石舞台に次ぐ第4位の規模を誇っています。
元は全長75mの 前方後円墳 だったと考えられ、早くに古墳を覆う土が失われて石室が露出してしまいました。
“ 蛇塚 ” の名称は、かつて 石室内に蛇が多く棲んでいた ことに由来すると伝えられています。
地図 : 蛇塚古墳
太秦の住宅街に突如として現れる 『 蛇塚古墳 』 ( へびづかこふん ) は、巨石を組んで構成された 横穴式石室 の規模としては 京都府下最大 で、全国的にも玄室 ( げんしつ : 古墳内の棺をおさめる部屋 ) の床面積では明日香 ( 奈良県 ) の石舞台に次ぐ第4位の規模を誇っています。
元は全長75mの 前方後円墳 だったと考えられ、早くに古墳を覆う土が失われて石室が露出してしまいました。
“ 蛇塚 ” の名称は、かつて 石室内に蛇が多く棲んでいた ことに由来すると伝えられています。
地図 : 蛇塚古墳
2007年03月11日
広隆寺
『 広隆寺 』
平安京が遷都される以前から京都に定着して強い勢力を誇っていた豪族の 秦 ( はた ) 氏は、今から約 1400年、秦氏を率いる 秦河勝 ( はたのかわかつ ) が聖徳太子から仏像を賜り、秦氏の氏寺 として 『 広隆寺 』 ( こうりゅうじ ) を創建しました。
広隆寺に伝わる 「 宝冠弥勒菩薩半跏思惟像 」 ( ほうかんみろくぼさつはんかしいぞう : 国宝 ) の美しく気品ある姿は、多くの人びとを魅了してきました。
また 「 宝髻弥勒菩薩半跏思惟像 」 ( ほうけい- : 国宝 ) は、泣いたような表情から 「 泣き弥勒 」 と呼ばれています。
地図 : 広隆寺
平安京が遷都される以前から京都に定着して強い勢力を誇っていた豪族の 秦 ( はた ) 氏は、今から約 1400年、秦氏を率いる 秦河勝 ( はたのかわかつ ) が聖徳太子から仏像を賜り、秦氏の氏寺 として 『 広隆寺 』 ( こうりゅうじ ) を創建しました。
広隆寺に伝わる 「 宝冠弥勒菩薩半跏思惟像 」 ( ほうかんみろくぼさつはんかしいぞう : 国宝 ) の美しく気品ある姿は、多くの人びとを魅了してきました。
また 「 宝髻弥勒菩薩半跏思惟像 」 ( ほうけい- : 国宝 ) は、泣いたような表情から 「 泣き弥勒 」 と呼ばれています。
地図 : 広隆寺
2006年12月17日
広隆寺
『 広隆寺 』
推古天皇11 ( 603 ) 年のこと、聖徳太子 が 「 尊い仏像がここにあるが、誰かこの仏像を拝みたてまつる者はいるか? 」 と諸臣に尋ねたところ、秦河勝 ( はたのかわかつ ) という人物が仏像を賜りました。
秦河勝 とは、平安京遷都以前から太秦に定住していた渡来系の氏族 秦氏 の長 であり、聖徳太子から賜った仏像を安置する寺院を太秦に創建して 秦氏の氏寺 『 広隆寺 』 ( こうりゅうじ ) とした、と伝えられています ( 諸説あり )。
後世になって、広隆寺は 聖徳太子ゆかりの寺院 として多くの参拝者を集め、その参拝道は 太子道 として今も残っています。
地図 : 広隆寺
推古天皇11 ( 603 ) 年のこと、聖徳太子 が 「 尊い仏像がここにあるが、誰かこの仏像を拝みたてまつる者はいるか? 」 と諸臣に尋ねたところ、秦河勝 ( はたのかわかつ ) という人物が仏像を賜りました。
秦河勝 とは、平安京遷都以前から太秦に定住していた渡来系の氏族 秦氏 の長 であり、聖徳太子から賜った仏像を安置する寺院を太秦に創建して 秦氏の氏寺 『 広隆寺 』 ( こうりゅうじ ) とした、と伝えられています ( 諸説あり )。
後世になって、広隆寺は 聖徳太子ゆかりの寺院 として多くの参拝者を集め、その参拝道は 太子道 として今も残っています。
地図 : 広隆寺