2009年11月30日
俊成町
『 俊成町 』平安末期から鎌倉初期の歌人であり、幽玄体 ( ゆうげんたい ) と呼ばれる歌風を確立した 『 藤原俊成 』 ( ふじわらのしゅんぜい ) は、のちに 有心体 ( うしんたい ) と呼ばれる歌風を確立して歌道の頂点を極めた 藤原定家 の父としても知られています。
藤原俊成の邸宅跡 とされる烏丸松原下ル東側には、藤原俊成の功績を称えて死後に創祀されたという神社・俊成社 があり、あたりの町名も 『 俊成町 』 と名付けられています。
藤原俊成は、元久元 ( 1204 ) 年 11月30日、90才でこの世を去りました。
地図 : 俊成社
2009年04月04日
阿弥陀佛光寺
2009年03月27日
高瀬川
2009年02月28日
五条通
2009年02月27日
四条通
2008年06月20日
夕顔
堺町通松原上る西側に 「 源語伝説 五條辺 夕顔之墳 」 と刻まれた石碑があり、付近の町名を 「 夕顔町 」 といいます。
『 夕顔 』 ( ゆうがお ) とは、源氏物語54帖のひとつ < 夕顔 > 巻に登場する女性で、頭中将と結ばれましたが本妻の嫉妬を恐れて身を隠し、五条の荒れ果てた家 ( 石碑の立つ地が想定地 ) に住んでいたとされています。
その後、若き光源氏が夕顔の所に通うようになりましたが、物怪 ( もののけ ) によって急死してしまいました。
地図 : 源語伝説 五條辺 夕顔之墳
2008年04月04日
佛光寺
四条通の繁華街から少し南へ歩くと、真宗佛光寺派の本山 『 佛光寺 』 ( ぶっこうじ ) の大伽藍が見えてきます。
建暦2 ( 1212 ) 年、越後に流罪となっていた 親鸞聖人 が一時京都へ戻ってきた際、高弟の源海上人が山科に創建した寺院を起源としています。
のちに本尊・ 阿弥陀如来像 が盗難に遭いましたが、後醍醐天皇 の夢の中に如来の光が射し、その光をたどって無事に本尊を取り戻すことができたことから、天皇より 「 阿弥陀佛光寺 」 の寺号を賜わったと伝えられています。
『 花まつり in 佛光寺 』 佛光寺
4月4日(金) ・ 5日(土) 18:00 ~ 21:00
ライトアップやイベントが行われます
詳細は こちら へ
2007年09月18日
芹沢暗殺
『 芹沢暗殺 』文久3 ( 1863 ) 年 9月18日の深夜、新選組筆頭局長 ・ 芹沢鴨 ( せりざわかも ) は、屯所の八木邸で何者かに寝込みを襲撃されて亡くなりました。
この芹沢暗殺には、土方歳三 や 沖田総司 など、のちに新選組を率いる近藤派の数名によって実行されたともいわれ、現存する八木邸の柱には当時の激闘を物語る刀傷が深く刻み込まれています。
一般的な 芹沢鴨の人物像 は 豪傑で無法者 とされていますが、一説には 絵が上手くて子供達からは好かれていた ともいわれています。
2007年09月02日
因幡薬師堂
『 因幡薬師堂 』長い歴史の中には火災や戦火によって焼失し、寺地を転々とした果てに現在地に落ち着いているものが少なくありません。
また、豊臣秀吉 が市内に点在する寺院を鴨川沿いに集めて 寺町通 を形成した際に、強制的に移転させられたケースもありました。
そのような歴史の中、平安時代の創建から千年以上も移転することなく現在地にお堂を構え続ける 『 平等寺 』 ( 通称 : 因幡薬師堂 ) は、町衆が集う 町堂 として町衆自身が災禍や権力者から護り続けてきた寺院です。
2007年06月05日
栄西禅師
2007年04月29日
因幡薬師
『 因幡薬師 』平等寺 ( 烏丸松原 ) の寺伝によると、本尊の 薬師如来 は約千年前に因幡国 ( いなば : 鳥取県 ) から飛んで来たと伝えられ、以来 “ 因幡薬師 ” と呼ばれ親しまれています。
本尊の薬師如来は日本三如来のひとつに数えられており、よく見ると、頭に小さな座布団を被 ( かぶ ) っています。
千年近い長い歴史の中で多くの災禍に見舞われた平等寺では、真っ先に本尊を避難させるために、裏に 車輪の付いた厨子 ( ずし : 仏像を納める箱 ) ごと引っ張り出しました。 その際に厨子の中で仏様が頭を打たないように常に布団を被せて “ 防災ずきん ” としているのです。
2007年04月22日
因幡薬師堂
『 因幡薬師堂 』長い歴史を持つ寺院の中には、度重なる 火災 や 戦火 によって市内を転々とした果てに、現在地に落ち着いているものが少なくありません。
また、豊臣秀吉 が実施した 区画整理 によって、市内に点在する多くの寺院が鴨川沿いに集められ( 寺町通の形成 )、強制的に移転させられるケースもありました。
そのような歴史の中で、市内中央にありながら、平安時代の創建から千年以上も移転することなく現在地にお堂を構え続ける 『 平等寺 』 ( 通称 : 因幡薬師堂 ) は、町衆が集う 町堂 として 町衆自身が災難や権力者から護り続けてきた寺院 です。
2007年03月28日
高瀬川
京都の繁華街を静かに流れる 『 高瀬川 』 ( たかせがわ ) は、慶長年間 ( 1596~1615年 )、江戸時代初期の豪商 角倉了以 ( すみのくらりょうい ) が 材木 や 物資 の輸送のために開削した 運河 であり、明治頃までは荷物を積んだ 高瀬舟 が往来して賑わいを見せていました。
高瀬川の夜桜ライトアップ
『 桜と光の帯の高瀬川 』
3月下旬 ~ 4月上旬 ( 現在のところ、まだ未実施 )
高瀬川沿いの桜200本が、50基の照明によって
夜空に浮かび上がります
※投稿した写真は、昨年の写真です。
2007年03月22日
鉄輪井
能の演目 「 鉄輪 」 とは、自分を捨てて新しい女のもとへ走った夫に復讐しようと、頭に 鉄輪 ( かなわ : 三本足が付いた鉄製の輪で、囲炉裏で鍋などの台に用いる ) をのせて 貴船神社 に 丑の刻詣り ( うしのこくまいり ) をした女が鬼になる話しです。
一説には捨てられた女の家は五条大橋近くにあり、そこから毎夜、貴船へ丑の刻詣りをおこなったが、満願に六日足らず、家の井戸の傍らで息絶えた・・・ と。
以来、その井戸は 『 鉄輪井 』 ( かなわのい ) と呼ばれ、井戸の水を相手に飲ますと縁が切れる といわれています ( 現在は枯渇 )。
2006年12月14日
菅大臣神社
『 菅大臣神社 』平安前期の学者・政治家として知られる 菅原道真 は、第60代 醍醐天皇 の下で 右大臣 という重要な役職を務めていました。
しかし、左大臣の 藤原時平 の 讒言 ( ざんげん : 他人を陥れようとして事実を曲げ、偽って悪い様に告げ口をすること ) によって 九州大宰府へ左遷 ( させん : 低い地位や官職にうつること ) され、翌年に大宰府で 非業の死 を遂げました。
西洞院高辻の 『 菅大臣神社 』 ( かんだいじんじんじゃ ) は、道真公の邸宅があった場所 であり、道真公が生まれた時の産湯に使った水を汲んだという 産湯の井戸 も残っています。






