2017年02月15日

2/13(月)・14(火) ≪ 幕末ウォーク ≫ カルチャー / 京都リビング

月曜&火曜と、2日連続で同じコース、幕末ゆかりの史跡めぐりへ ( 笑 )

神泉苑


坂本龍馬ゆかりの武信稲荷神社を参拝し、その後は勤王志士・平野国臣が最期を迎えた六角獄舎跡などをめぐり、新選組ゆかりの壬生へ。

武信稲荷神社


壬生・新選組屯所跡 八木邸


現在、壬生寺は京の冬の旅で特別公開されています。 とくに注目の初公開は、壬生狂言を演じる狂言堂の内部を見学することができます!



外観を見ただけではわからない、堂内の構造から小道具まで見学することができ、これで今後、壬生狂言を見る際により理解が深まりそうです♪

■ 京の冬の旅・特別公開 : 壬生寺
観光協会・公式HP https://kyokanko.or.jp/huyu2016/huyutabi16_01.html#09
  

Posted by 若村 亮  at 19:32Comments(0)二条城・繁華街らくたび日記

2016年06月18日

≪ アイスコーヒー ≫ in レトロ喫茶 「 築地 」

「 おき・らくたび 」 の散策が終わり、続いて、京阪祇園四条駅・観光案内所 の散策 「 京阪ウォーク 」 に合流して花街を歩いて、さすがに 暑さ もあって カフェ へ。
 
レトロ喫茶 「 築地 」

 
クラッシック音楽 が流れる店内で、しばしの 休息 でした ( 笑 )
  

Posted by 若村 亮  at 19:03Comments(0)二条城・繁華街らくたび日記カフェ

2016年05月01日

≪ 鴨川の納涼床、始まりました ≫

今日から5月に入り、“ 夏の風物詩 ” として知られる 川床鴨川貴船 で開かれ、9月いっぱいまで 夕涼み などで大いに賑わいます。

鴨川の納涼床


鴨川の納涼床 は、5月9月昼間の時間帯の営業 も行われます。

本日の京都は 最高気温27.8℃ を記録して 夏日 になりました。 明日予想最高気温30℃ と、真夏日 を記録しそうです ( 笑 )
  

Posted by 若村 亮  at 19:01Comments(0)二条城・繁華街らくたび日記

2011年06月29日

白山神社・歯痛平癒

 『 白山神社・歯痛平癒 』

  江戸時代中頃のこと、最後の女性天皇として知られる第117代・後桜町天皇歯痛 で悩んでいたところ、宮中の女官が 白山神社 ( 京都・麸屋町通押小路下ル ) から 神箸 ( しんばし ) を持ち帰り、さらに 神塩 ( しんえん ) を天皇の痛む歯につけたところ、たちまち 歯痛が治った と伝えられています。

  以来、白山神社は 歯痛平癒のご利益 があるとされ、多くの参拝者が参詣に訪れるようになりました。 現在、長寿箸 などの授与も行われています。

参考 : 京都・白山神社の歴史については こちら
  

Posted by 若村 亮  at 12:00Comments(0)二条城・繁華街

2011年06月28日

白山神社

 『 白山神社 』

  平安末期、加賀国 ( 石川県 ) に祀られた 白山神社 から、平家の武将による乱暴狼藉に怒った僧らが 神輿 三基 を担いで京都の内裏 ( 御所 ) まで押し寄せましたが、公家は取り合わず、武士によって追い払われました。

  白山神社からの一行は京都から逃げる際に、神輿 一基 が動かなくなったことから京都に置き去りにして立ち去ったといい、残された神輿を祀って京都の 『 白山神社 』 ( はくさんじんじゃ ) が創建されたと伝えられています。

地図 : 白山神社
  

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2010年05月25日

里内裏

 『 里内裏 』

  平安時代以降、天皇の住居 である 内裏 ( だいり : 御所 ) はたびたび火災で焼失し、内裏が焼失した際には天皇の在所を一時的に他の所へ移す必要があるため、貴族 ( 公家) の邸宅などを 仮の内裏 とする 『 里内裏 』 ( さとだいり ) を設けて住居としました。

  「 堀河天皇里内裏跡 」 と刻まれた石碑が堀川通二条下ル東側 ( 京都国際ホテル前 ) に立ち、ここが 平安後期の歴代天皇の里内裏跡 にあたることを示し、とくに 堀河天皇が愛用した里内裏 と伝えられています。

地図 : 堀河天皇里内裏跡
  

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2010年02月28日

福井藩邸跡

 『 福井藩邸跡 』

  堀川通二条下ル東側一帯には、江戸後期に 福井藩藩邸 が建てられていました。

  藩邸 とは各藩が 京都に設けた出先機関連絡事務所 ) で、居留守役 が藩邸に詰めて様々な事務連絡に務めていました。

  幕末福井藩主松平春嶽 ( まつだいらしゅんがく ) は、幕府政治の改革公武合体運動 を強く推し進めた人物として知られ、坂本龍馬 も京都の福井藩邸を訪ねて藩主・松平春嶽や藩士らと面談しています。

地図 : 福井藩邸跡
  

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2009年09月26日

武市瑞山 寓居之跡

 『 武市瑞山 寓居之跡 』

  幕末、土佐藩 出身の 『 武市瑞山 』 ( たけちずいざん ) は 尊王 ( そんのう : 天皇に忠義を尽くすこと ) の思想を抱いて駆け巡り、ついには藩全体の方針を尊王へと転換しました。

  しかし、その後の政変で土佐藩の方針は再び転換し ( 公武合体 へ )、文久3 ( 1863 ) 年 9月、武市瑞山は捕らえられ、後に切腹となりました。

  現在、三条小橋近くの 武市瑞山寓居跡 には、彼の功績に比べて余りにも小さな石碑が静かに佇んでいます。

地図 : 武市瑞山 寓居之跡
  

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2009年06月02日

本能寺

 『 本能寺 』

  応永22 ( 1415 ) 年、日隆上人 によって創建された法華宗本門流大本山 『 本能寺 』 ( ほんのうじ ) は、当初 本応寺 と称していましたが、永享5 ( 1433 ) 年、六角大宮に移転し、本能寺 と寺名を改めました。

  広大な寺域を持つ大寺院となりましたが、天正10 ( 1582 ) 年 6月2日 未明、本能寺に宿泊する 織田信長明智光秀 が急襲し、織田信長は天下統一間近で命を落とし ( 本能寺の変 )、本能寺は炎上して灰燼に帰しました。 本能寺は、その後に移転再建されて現在に至っています。

地図 : 旧・本能寺 ( 本能寺の変 )現・本能寺
  

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2008年12月17日

角倉了以別邸跡

 『 角倉了以別邸跡 』

  安土桃山から江戸初期にかけて活躍した豪商 『 角倉了以 』 ( すみのくらりょうい ) は、文禄元 ( 1592 ) 年に豊臣秀吉の許可を得て安南国 ( 現在のベトナム ) に貿易船を派遣するなど、貿易商 として大いに活躍しました。

  国内の 諸河川の開発整備 にも積極的に従事し、慶長11 ( 1606 ) 年には 大堰川 ( 保津川 ) や 富士川 ( 静岡県 ) を開削して疎通させ、また慶長16 ( 1611 ) 年には京都と伏見を結ぶ運河として 高瀬川 を開削し、二条より鴨川の水を引き込んで水運を確立しました。

地図 : 角倉了以別邸跡  

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2008年12月03日

京都所司代

 『 京都所司代 』

  二条城の北側に広大な屋敷を構えた 『 京都所司代 』 ( きょうとしょしだい ) は、朝廷や公家の監視京都諸役人の統率京都・伏見・奈良の町奉行の管理、さらには 近畿全域の訴訟の裁決西国大名の動静監視 など、江戸幕府の役職のひとつとして京都に駐在し、老中に次ぐ最重要役職として強大な権限を持っていました。

  幕末の文久2 ( 1862 ) 年に 京都守護職 が設けられると、京都所司代はその管轄下となり、王政復古によって廃止されました。

地図 : 京都所司代跡東町奉行所跡西町奉行所跡  

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2008年10月18日

冷泉院

 『 冷泉院 』

  平安時代、平安京大内裏の東隣には 天皇の離宮貴族の邸宅 が数多く建ち並び、第52代・嵯峨天皇後院 ( ごいん : 天皇を譲位した後に住んだ邸宅 ) として建立された 『 冷泉院 』 ( れいぜいいん ) もそのひとつでした。

  元は 「 然 」 の文字を用いて 「 冷然院 」 とされていましたが、度重なる火災で焼失と再建を繰り返し、「 然 」「 燃える 」 に通じることから 「 泉 」 ( 水は火に強い ) の文字を用いて 『 冷泉院 』 と改められました。

地図 : 冷泉院跡 石碑  

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2008年10月17日

善女龍王

 『 善女龍王 』

  弘法大師空海が遺した言葉によると、清瀧権現 ( せいりゅうごんげん ) はインド神話に登場する 八大竜王 のひとつ 沙掲羅 ( しゃから ) の第三王女と伝えられ、幸をもたらす 善龍 であることから 『 善女龍王 』 ( ぜんにょりゅうおう ) と呼ばれていました。

  弘法大師 空海神泉苑祈雨の修法 を行なった際、この 善女龍王 が現われて平安京に 恵みの雨 をもたらしたと伝えられ、現在も神泉苑の社殿に祀られています。

地図 : 神泉苑  

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2008年10月15日

橋本左内 寓居跡

 『 橋本左内 寓居跡 』

  幕末、二条城の東大手門前には 越前福井藩邸 があり、すぐ側には藩士 『 橋本左内 』 ( はしもとさない ) の寓居もありました。

  幕末の志士・橋本左内 は、越前福井藩主・松平慶永 ( よしなが ) に側近として重用され、慶永を助けて 幕政改革 に参加し、14代将軍の継承問題では 一橋慶喜 ( のちの15代将軍・徳川慶喜 ) の擁立に尽力しました。

  しかし、一橋派の画策は失敗に終わり、安政の大獄 によって橋本左内は斬首となりました。

地図 : 橋本左内 寓居跡  

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2008年09月17日

在原業平

 『 在原業平 』

  平安前期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙に名を列する 『 在原業平 』 ( ありわらのなりひら ) は、醍醐天皇の命によって編纂された我が国最初の勅撰和歌集である 「 古今和歌集 」 ( こきんわかしゅう ) にも多くの秀歌が入集しています。

  古今和歌集仮名序 ( かなじょ : 古今和歌集のまえがきで、和歌の本質や成り立ちについて仮名で書かれたもの ) において、在原業平の情熱的な歌風は 「 心あまりて言葉たらず 」 と評されています。

地図 : 在原業平邸跡  

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2008年09月11日

東三条殿

 『 東三条殿 』

  押小路通釜座北西角に立つ石碑は 『 東三条殿 』 ( ひがしさんじょうどの ) の跡を示しています。

  東三条殿 とは 平安時代の邸宅 で、人臣初の太政大臣や摂政となった 藤原良房 ( よしふさ ) が建立し、以後は 摂関家 ( せっかんけ : 摂政や関白に任ぜられる家柄 ) によって受け継がれ、後の 藤原兼家 ( かねいえ ) は 東三条殿 とも称されました。

  天皇の仮御所にもなりましたが、仁安元 ( 1166 ) 年に火災で焼失し、再建されることなく、そのまま荒廃しました。

地図 : 東三条殿跡碑  

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2008年09月10日

御金神社

 『 御金神社 』

  金山毘古神 ( かなやまびこのかみ ) は古くから 鉱山の神 として崇められ、その鉱物から作られる 金物鍛冶鋳物の神 として信仰されるようになり、さらには 包丁金具の神 ともされています。

  西洞院通御池上ルに鎮座する 『 御金神社 』 ( みかねじんじゃ ) は、金山毘古神 を祭神として祀り、刀剣や鏡など金属関係の神とされ、近年では 「 御金 」 に通じるとして 銀行・証券業界 などからも厚い信仰を集めています。

地図 : 御金神社  

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2008年09月09日

三井越後屋京本店記念庭園

 『 三井越後屋京本店記念庭園 』

  江戸前期の豪商・三井高利 ( みついたかとし ) は、江戸と京都で 呉服店 を開業して屋号を 「 越後屋 」 ( 後の三越 ) とし、その後は 両替商 も営んで巨額の富を蓄え、三井財閥 の基礎を築きました。

  江戸中期になると、京都の越後屋は室町通二条上る冷泉町に大きな屋敷を構えるに至り、明治以降も三越京都支店として歴史を受け継いだそうですが、京都支店が廃止されると同時に、その土地の一部を 三井越後屋京本店記念庭園 としました。

地図 : 三井越後屋京本店記念庭園  

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2008年06月05日

池田屋事件

 『 池田屋事件 』

  元治元 ( 1864 ) 年 6月5日夜半、新選組 は三条小橋の旅籠・池田屋 において 尊王攘夷派の志士 20数名が密議を行なっていることを察知し、局長・近藤勇 率いる隊士数名が池田屋を襲撃し、約2時間に及ぶ激闘の末、尊王攘夷派に大打撃を与えました。

  この 『 池田屋事件 』 によって尊王攘夷派の有力な志士が数多く戦死しましたが、三条大橋南西2個目の擬宝珠 ( ぎぼし ) に現在も残る傷は、この池田屋事件の激闘による 刀傷 と伝えられています。  

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2008年05月08日

千鳥の紋章

 『 千鳥の紋章 』

  京都の五花街にはそれぞれ紋章があり、先斗町 ( ぽんとちょう ) の提灯には、冬の鴨川に飛来する 千鳥 ( ちどり ) をデザイン化した紋章がみられます。

  新緑が京都を彩る毎年5月、先斗町歌舞練場において 「 鴨川をどり 」 が盛大に催され、京都を一層華やかに彩ります。

  明治5 ( 1872 ) 年に始まり、今年で171回目を迎える 「 鴨川をどり 」 は、美しい舞台上で舞踊劇と優美な舞が披露され、見るものを艶やかな京情緒の世界へと誘います。

『 鴨川をどり 』  先斗町歌舞練場
   5月1日 ( 木 ) ~ 24日 ( 土 )  

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2007年12月07日

みすや針

 『 みすや針 』

  京都の名産のひとつ 『 みすや針 』 は、荷物にならない 京土産 として旅人から喜ばれ、江戸時代の京都の名所案内本にも紹介されています。

  創業当時から河原町三条西入ルに店を構え、当初は 「 池ノ端針 」 の屋号で商いを始めましたが、慶安4 ( 1651 ) 年から 御用針司 として 宮中に針を納める ようになり、秘伝の技で仕上げる針を 御簾 ( みす ) の中で作業していたことから、のちに後西院天皇より 『 みすや 』 の屋号を賜わったと伝えられています。

『 針供養 』  法輪寺
   12月8日  

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2007年10月14日

大政奉還

 『 大政奉還 』

  慶応3 ( 1867 ) 年 10月14日 ( 今日 )、二条城大広間に集まる諸大名を前に、江戸幕府15代将軍 徳川慶喜 は征夷大将軍の職を辞し、政権を朝廷に返上する旨を告げました。

  翌日、朝廷が許可して 『 大政奉還 』 ( たいせいほうかん ) が成立し、これによって江戸幕府は終焉を迎え、鎌倉幕府から続いた 武家政治の終焉 となりました。

  主を失った二条城はその後、太政官代 ・ 京都府庁 ・ 二条離宮 と変遷し、昭和14年に宮内省より京都市に下賜されて現在に至ります。

地図 : 二条城  

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2007年08月31日

縁結びの柳

 『 縁結びの柳 』

  烏丸六角に建つ 六角堂 の境内には、植物辞典に 学名 「 ロッカクドウ 」 と記されている柳があり、一般的には 「 六角柳 」 と呼ばれています。

  遣隋使で中国に渡った小野妹子が日本へ持ち帰った柳とも伝えられ、枝先が地面に付くほどに伸びていることから 「 地ずり柳 」 とも呼ばれています。

  平安初期、嵯峨天皇が六角堂の柳の下で美しい后と出会った逸話から “ 六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる ” と言われるようになり、『 縁結びの柳 』 として現在も親しまれています。

地図 : 六角堂  

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2007年07月14日

大船鉾

 『 大船鉾 』

  幕末の元冶元 ( 1867 ) 年に勃発した 禁門の変 によって大火が発生し、京都の町は火に包まれ、数多くの 山鉾が焼失 しました。

  その後、多くの山鉾が復興しましたが、大船鉾鷹山布袋山 の3基は各鉾町の諸事情もあって復興に至らず、「 休み山 」 となっています。

  現在も巡行には参加していませんが、焼け残った懸装品を飾ったり、お囃子を伝承するなど、復興へ向けて歩んでいます。

  かつて 後祭のトリ を務めた 『 大船鉾 』 は、現存する 船鉾“ 出陣の船鉾 ” と呼ぶのに対して “ 凱旋の船鉾 ” と呼ばれていました。

『 大船鉾 』  地図 : 大船鉾
   7月13日~16日
   懸想品の展示とお囃子
   粽やお守りの授与  

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2007年06月19日

南蛮寺

 『 南蛮寺 』

  天文18 ( 1549 ) 年に日本へ伝来した キリスト教 は、織田信長が南蛮文化に理解を示したこともあり、その勢力を急速に拡大しました。

  日本各地に建てられた教会堂は 『 南蛮寺 』 ( なんばんじ ) と呼ばれ、特に京都には三階建ての壮麗壮大な南蛮寺が建立されました。

  しかし、急激な勢力拡大のなかで宣教師による信仰の強制、寺社の破壊、僧侶への迫害などが問題となり、天正15 ( 1587 ) 年 6月19日 ( 今日 )、ついに 豊臣秀吉キリシタン禁令 を発布することになりました。

地図 : 南蛮寺跡  

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2007年06月18日

徳川和子

 『 徳川和子 』

  幕府と朝廷の関係を緩和させる政策として、元和6 ( 1620 ) 年 6月18日 ( 今日 )、江戸幕府二代将軍 ・ 徳川秀忠の娘 徳川和子 ( とくがわまさこ : のちの東福門院 ) が 後水尾天皇 ( ごみずのおてんのう ) のもとに 入内 ( じゅだい : 天皇の后として内裏に入ること ) しました。

  二条城 から 京都御所 へ向かう徳川和子の道中行列は、入内に際しての 莫大な持参金荷物 によって長い行列となり、先頭が御所へ到着しても最後尾は二条城を出ていなかった と伝えられています。

地図 : 二条城と京都御所  

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2007年06月17日

旧日本銀行 京都支店

 『 旧日本銀行 京都支店 』

  三条通は古くから東海道の西の起点として賑わい、明治になると 銀行保険会社郵便局 などの 近代建築 が建ち並びました。

  明治39 ( 1906 ) 年には日本近代建築の祖と称される 辰野金吾 ( たつのきんご ) によって、赤の煉瓦と白の花崗岩を装飾的に配した 日本銀行 京都支店 が建設されました。

  その後の昭和40 ( 1965 ) 年、京都支店は河原町二条に移転し、三条通の旧京都支店の建物は博物館として保存され、現在は 京都府京都文化博物館京別館 として公開されています。

地図 : 京都文化博物館  

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2007年06月06日

池田屋事件

 『 池田屋事件 』

  元治元 ( 1864 ) 年 6月5日の夜半 ( 昨夜 )、新選組 は三条小橋にある旅籠の 池田屋 において 尊皇攘夷派の志士密議 を行なっていることを察知し、局長の 近藤勇 が率いる隊士数名が池田屋を襲撃、約2時間に及ぶ激闘の末に大打撃を与えました。

  尊攘派の有力な志士が数多く戦死し、明治維新が一年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激して維新を早めたともいわれています。

  三条大橋 の南西二個目の擬宝珠に現在も残る傷は、この 池田屋事件の激闘による刀傷 と伝えられています。  

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2007年06月02日

本能寺の変

 『 本能寺の変 』

  我が敵は まさに本能寺にあり!

  天正10 ( 1582 ) 年 6月2日 ( 今日 )、1万3千の軍勢を率いた 明智光秀謀反 をおこし、京都 ・ 本能寺 において主君の 織田信長 を討ちました。 世にいう 『 本能寺の変 』 です。

  天下統一を目前に49歳で命を落とした織田信長は、燃える本能寺で最期に・・・

  人間五十年
    下天の内をくらぶれば
               夢幻の如くなり

  と 幸若舞 「 敦盛 」 ( こうわかまい ・ あつもり : 信長が好んだ曲舞のひとつ ) を舞って人生を終えた、とも伝えられています。

地図 : 旧本能寺  

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2007年05月08日

鴨川をどり

 『 鴨川をどり 』

  京の花街のひとつ 先斗町 ( ぽんとちょう ) は、鴨川の四条から三条間の西にお茶屋が軒を並べています。 先斗町の紋章は冬の鴨川に飛来する 千鳥 ( ちどり ) をデザイン化したものであり、愛らしさを感じます。

  新緑が京都を美しく彩る5月、先斗町歌舞練場において 『 鴨川をどり 』 が盛大に催され、京都を一層華やかに彩ります。

  明治5 ( 1872 ) 年に始められ、今年で170回目を迎える 「 鴨川をどり 」 は、美しい舞台の上で舞踊劇と優美な舞が披露され、見るものを艶やかな京情緒の世界へと誘います。

地図 : 先斗町歌舞練場  

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