2010年01月25日
初天神
2009年09月28日
忌明塔
北野天満宮の西側に位置する 東向観音寺 の境内には、高さが4メートルを越える 巨大な石塔 が立っています。
この石塔は、明治時代の神仏分離令が発布されるまでは北野天満宮の境内に鎮座する 伴氏社 ( ともうじしゃ ) にあったもので、菅原道真の母の霊廟 と伝えられてきました。
室町時代以降、父母の四十九日の忌明けに参拝する 『 忌明塔 』 ( いみあけとう ) として信仰され、知恩院 や 革堂 ( 行願寺 ) の五輪塔とともに知られています。
地図 : 東向観音寺
2009年03月01日
白峯神宮
2009年02月18日
東向観音寺
2009年01月20日
真盛豆
『 真盛豆 』上七軒 に建つ 西方尼寺 の周辺は 真盛町 ( しんせいちょう ) と呼ばれ、室町時代に 天台宗真盛派 を興した高僧・真盛上人 が、当地で辻説法を行いながら尼僧の道場として西方尼寺を建立しました。
西方尼寺に代々伝わる 『 真盛豆 』 ( しんせいまめ ) は、炒った黒豆に乾燥させた大根の葉をかけ、辻説法の時に真盛上人が聴衆に振る舞ったのが始まりといわれ、北野大茶湯で 太閤秀吉 が茶の菓子に合うと褒めたことから、現在でも 茶事の菓子 として好まれています。
2008年11月28日
錦秋の御土居

『 錦秋の史跡・御土居 』
北野天満宮 は、延喜3 ( 903 ) 年、九州・大宰府で悲運の最期を遂げた 菅原道真公 を祀ったことに始まり、現在では 学問の神様 として厚い信仰を集めています。
境内の西側には、天正19 ( 1591 ) 年に 豊臣秀吉 が洛中と洛外の境界として築いた土塁 『 御土居 』 ( おどい ) の一部が史跡として残されています。
秋になると北野天満宮に残る史跡・御土居の周辺は紅葉の錦が一面に広がり、散る紅葉が紙屋川の水面を赤や黄に彩ります。
地図 : 北野天満宮 史跡・御土居
リンク : 北野天満宮 もみじ苑 公開情報
写真集 : らくたろう 京都紅葉写真集 「 葉色みやび 」
2008年10月04日
ずいき祭
2008年09月28日
観世水
『 観世水 』室町幕府 3代将軍・足利義満 は 能楽 を好み、猿楽大和四座のひとつ 結崎座 ( ゆうざきざ : 後の 観世座 ) の始祖とされる父・観世清次 ( かんぜきよつぐ ) に 観阿弥 ( かんあみ )、その子・元清 ( もときよ ) に 世阿弥 ( ぜあみ ) の法名を授け、また現在の今出川大宮辺りに屋敷地を与えました ( 現在の 観世町 )。
観世屋敷は後の応仁の乱で焼失しましたが、屋敷内の 鎮守社 と 井戸 が今も西陣中央小学校の敷地内に残されています。かつて観世井に竜神が降り立ち、水面が常に動いて波紋を作ったと伝えられ、それが観世流の紋様 『 観世水 』 ( かんぜみず ) となっています。
地図 : 観世町
2008年09月19日
黒田如水邸跡
豊臣秀吉 が造営した荘厳華麗な城郭風の邸宅は 「 聚楽第 」 ( じゅらくだい ) と呼ばれ、その北東部に 秀吉の参謀 として活躍した 『 黒田如水 』 ( くろだじょすい ) の邸宅がありました。
本名は 黒田孝高 ( よしたか ) といい、中国攻めに向う秀吉に従って参謀として 毛利攻め などで活躍し、後に秀吉が朝鮮に出兵した 文禄・慶長の役 にも参戦しています。
現在、黒田如水邸跡 の石碑が建つ町は 「 如水町 」 と名付けられています。
地図 : 黒田如水邸跡
2008年09月18日
狩野元信邸跡
かつて日本画界において最大の画派を築いた 狩野派 ( かのうは ) は、室町中期の 狩野正信 ( まさのぶ ) が 室町幕府 の 御用絵師 となり、狩野派の基礎を築きました。
正信の子・元信 ( もとのぶ ) も父に続いて幕府御用絵師として活躍し、漢画様式 に 大和絵の技法 を取り入れた力強い装飾性をもつ様式を大成し、桃山障壁画の基礎を確立しました。
元信が上京に建てた邸宅は、以後、松栄・永徳など狩野家歴代に受け継がれました。
地図 : 狩野元信邸跡
2008年09月04日
釘抜地蔵
2008年08月12日
千本閻魔堂
2008年06月11日
織部形灯籠
安土桃山時代の 武将・茶人 として知られる 古田重然 ( ふるたしげてる ) は、織田信長や豊臣秀吉に大名として仕え、織部正 ( おりべのかみ ) という官位を叙任したことから 古田織部 ( ふるたおりべ ) とも呼ばれていました。
北野天満宮 の三光門・東側に立つ石灯籠は、元和元 ( 1615 ) 年 6月11日 ( 今日 ) に亡くなった古田織部の墓に立つ灯籠に似ることから 『 織部形灯籠 』 と呼ばれ、茶人が好んだ石灯籠の形式のひとつとされています。
地図 : 北野天満宮 織部形灯籠
2008年03月20日
妙蓮寺椿
日蓮宗祖・日蓮上人の孫弟子にあたる 日像上人 が永仁2 ( 1294 ) 年に創建した 妙蓮寺 ( みょうれんじ ) には、茶花 として古くから愛用されてきた 『 妙蓮寺椿 』 があります。
妙蓮寺の塔頭・玉龍院が育て伝えてきた名椿で、室町時代の連歌師・ 宗祇 は一枝を写生して < 余乃花はみな末寺なり妙蓮寺 > と歌に詠んで賞賛しています。
五百年以上の歴史を受け継ぐ妙蓮寺椿は、現在二代目にあたり、花弁は4~5枚、紅のやや濃い大中輪を咲かせています。
地図 : 妙蓮寺
2008年03月06日
権現造
『 権現造 』北野天満宮 の本殿を側面から拝見すると、右の 本殿 と左の 拝殿 が軒の低い 石の間 によって結ばれており、また拝殿の両側には 楽の間 が続いていることから屋根の構造が複雑で、俗に 「 八棟造 」 ( やつむねづくり ) といわれています。
この形式が徳川氏 ( 東照大権現 ) ゆかりの日光東照宮などに継承されたことから、一般的に 『 権現造 』 ( ごんげんづくり ) と呼ばれています。
現在の社殿は、慶長12 ( 1607 ) 年に豊臣秀頼の寄進によって建築されたもので、国宝に指定されています。
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建築から垣間見る
悠久の都、京都の歴史
社寺にある各建物の役割や、その造形に込められた意味や背景を紹介。 建築のワンポイント解説が随所にあります。
2008年02月12日
東向観音寺
北野天満宮の二ノ鳥居の西側に 『 東向観音寺 』 ( ひがしむきかんのんじ ) と呼ばれる寺院があります。
寺伝によると 延暦25 ( 806 ) 年、桓武天皇の勅により藤原小黒麿らが 平安京鎮護 のために建立した 朝日寺 に始まるとされ、後の天暦元 ( 947 ) 年、朝日寺の僧・最鎮らが北野天満宮を建立し、応和元 ( 961 ) 年に九州・大宰府の観世音寺から 菅原道真公の作 と伝えられる 十一面観音菩薩像 を譲り受けて本尊としたとされています。
京の冬の旅
源氏物語・こころの道シリーズ
「 明石の上 」 と 北野天満宮特別参拝
日時 : 2月11日 ( 月・祝 ) ~ 17日 ( 日 )
時間 : 10:00 ~ 16:00 ( 最終入場 15:30 )
場所 : 東向観音寺 の専用入口
源氏物語に登場する 「 明石の上 」 のしつらえの特別展示を北野天満宮の神宮寺としての歴史を持ち、通常は非公開の東向観音寺にて特別に拝観・鑑賞できます。 また、北野天満宮の本殿において特別昇殿参拝もあり、この時期に特別公開している宝物殿もご覧いただけます。
2008年01月31日
尾形光琳
江戸時代中期の画家として 「 燕子花 ( かきつばた ) 図屏風 」 や 「 紅白梅図屏風 」 などの代表作を残した 『 尾形光琳 』 ( おがたこうりん ) は、万治元 ( 1658 ) 年、京都の 呉服商 雁金屋 の当主 尾形宗謙の次男として生まれました。
本阿弥光悦 や 俵屋宗達 を師と仰ぎ、二条家 ( 公家 )、津軽家 や 酒井家 ( 大名 )、三井家 や 住友家 や 冬木家 ( 豪商 ) などに出入りし、大和絵 ( 平安時代以来の伝統的な絵画様式 ) を革新した大胆華麗な装飾画風を大成しました。
妙顕寺 の東隣にある塔頭 ・ 泉妙院に尾形光琳の墓があります。
地図 : 妙顕寺
2008年01月25日
菅原道真
『 菅原道真 』平安時代、菅原道真 ( すがわらのみちざね ) は天皇の厚い信頼により 右大臣 として活躍しましたが、左大臣 藤原時平の謀略 により、延喜元 ( 901 ) 年 1月25日 ( 今日 )、九州の 大宰府 へと 左遷 ( させん : 低い官職にうつすこと ) されてしまいました。
東風 ( こち ) 吹かば
匂いおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春を忘るな
梅をこよなく愛した道真は邸宅にある梅との別れを惜み、“ 東から春風が吹く頃に梅の香りを九州まで送りなさい、私がいないからと言って春を忘れるなよ ” と歌を詠み、遠い九州へと京都を旅立ちました。
『 初天神 』 北野天満宮
1月25日
今年最初の天神さん縁日
2007年12月25日
天満
2007年12月18日
わら天神
敷地神社 ( しきちじんじゃ ) の祭神 「 木花開耶姫命 」 ( このはなさくやひめのみこと ) は、古くから北山の神として祀られ、安産祈願の神 として信仰を集めてきました。
応永4 ( 1397 ) 年に 足利義満 が 金閣寺 を造営した際、その 鎮守社 として現在地に遷座しました。
安産祈願で授与される 「 わら 」 の護符 は、その 「 わら 」 に節 ( ふし ) があれば男の子、節がなければ女の子が生まれるとされていることから、敷地神社は通称 『 わら天神 』 と呼ばれています。
地図 : わら天神
2007年11月26日
御茶壺奉献祭
2007年10月03日
瑞饋祭
京都の秋祭りの先陣を切る、北野天満宮 の 『 瑞饋祭 』 ( ずいきまつり : 10月1日 ~ 5日 ) は、五穀豊穣に感謝する秋の大祭 です。
神輿の屋根を 瑞饋 ( ずいき : 芋の茎 ) で葺き、からし芋 ・ 米 ・ 麦 ・ 豆 ・ 野菜などで飾り、その神輿を氏子達が担いで町を練り歩きます。
氏子の町を練り歩いた神輿は 「 還幸祭 」 ( かんこうさい : 10月4日 ) で再び北野天満宮へ戻りますが、祭神の 菅原道真 をはじめて北野の地へお迎えした様子を想い起こさせ、別名 「 おいでまつり 」 と呼ばれています。
2007年09月04日
釘抜地蔵
『 釘抜地蔵 』昔、両手のキリキリとした痛みに苦しんでいた商家の旦那が、出入りの商人から “ 千本通の苦抜地蔵は霊験あらたか ” との噂を聞き、さっそく出向いて病が治るよう祈願しました。
すると、夢の中に 地蔵菩薩 が現れて 「 前世で人を怨んだ罪によって、汝は今、苦しみを受けている 」 と言い、その怨みの釘を抜いてくれた・・・と。
以来、石像寺の 「 苦抜 ( くぬき ) 菩薩 」 は 「 釘抜 ( くぎぬき ) 地蔵 」 と呼ばれ、苦しみを抜く地蔵さん として今も厚い信仰を集めています。
2007年09月03日
首途八幡宮
『 首途八幡宮 』平安末期、平家隆盛の時代にあって、源氏は京都を追われ、牛若丸 ( 源義経 ) も奥州藤原氏の庇護を受けるために奥州平泉へ下りました。
その時、商いで奥州藤原氏と縁のあった 金売吉次 ( かねうりきちじ ) が手助けし、牛若丸は京都を発つにあたり、吉次の屋敷の神社で 旅の安全を祈願 したと伝えられています。
以来、その社は 「 首途 」 ( かどで : 出発 ) を祝う 『 首途八幡宮 』 と呼ばれ、現在も旅行安全の守護神として厚く信仰されています。
2007年05月31日
妙蓮寺
『 妙蓮寺 』 ( みょうれんじ ) は、永仁2 ( 1294 ) 年、日像 ( にちぞう ) 上人が 「 妙法蓮華寺 」 として五条西洞院に創建し、幾度か移転を繰り返し、天正15 ( 1587 ) 年に豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在の西陣へ移転しました。
2007年04月15日
上七軒
京都には五つの花街があり、祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町 と、そして北野天満宮の東側に最も古い花街 『 上七軒 』 ( かみしちけん ) があります。
上七軒は室町時代、北野天満宮修復の際に残った木材で七軒の茶店が建てられ、参詣する人が休息に立ち寄る “ 七軒茶屋 ” として始まりました。
豊臣秀吉 が 北野大茶会 を催した時、七軒茶屋 の 御手洗団子 ( みたらしだんご ) を大いに褒め、日本で最初の公許茶屋 として認められました。
現在の 上七軒の紋章 は、名物の御手洗団子を模した “ 五つ団子 ” ( 二本の五つ団子が円形に ) となっています。
『 第55回 北野をどり 』
4月15日 ( 日 ) ~ 25日 ( 水 )
上七軒の芸舞妓さんによる伝統行事
2007年04月10日
平野神社
京都に数ある桜の名所の中でも、円山公園 と 平野神社 は 夜桜の名所 として知られています。
平野神社 の歴史は古く、延暦13 ( 794 ) 年の平安京遷都にともない、桓武天皇 が奈良から平野の地に神様を遷して平野神社を創建したことに始まります。
以来、歴代天皇からの崇敬も厚く、平安時代中頃には 花山天皇 によって数千本の桜が境内に植えられ、一躍、桜の名所 となりました。
現在、境内の桜は約 50種 400本! 寝覚桜、胡蝶桜、御衣黄桜、手弱女桜、平野妹背桜 など、平安王朝の雅を感じさせる名桜が天を覆い尽くします。
『 平野神社 桜花祭 』
4月10日 ( 火 )
艶やかな織姫や騎馬の神幸列が繰り出されます
2007年02月24日
天神さん
『 天神さん 』菅原道真 は 左遷 によって京都を追われ、ついに京都に戻ることなく、延喜3 ( 903 ) 年 2月25日 ( 明日 )、九州の 大宰府 において 非業の死 を迎えました。
以来、京都では 豪雨 ・ 落雷 ・ 地震 などの天災が続き、“ これは菅原道真の怨念に違いない ” と恐れられ、その怒りを鎮めるために 『 北野天満宮 』 が建立されて祭神として祀られました。
古くから北野の地には農耕の神 「 火雷天神 」 が祀られており、天から怒りの雷を落とした菅原道真が火雷天神と同一視されて、以来 “ 天神さん ” といえば 菅原道真 となりました。
『 梅花祭 』
2月25日
2007年02月16日
白峯神宮
『 白峯神宮 』蹴鞠 ( けまり ) は中国から伝来し、平安時代になると宮中や貴族によって盛んに蹴鞠遊びが行なわれ、平安末期には 飛鳥井家 ( あすかいけ ) と 難波家 ( なんばけ : 室町~江戸時代に衰退 ) の二家が 蹴鞠の宗家 として技の指導や伝承を行なってきました。
西陣に鎮座する 『 白峯神宮 』 ( しらみねじんぐう ) は、明治時代に飛鳥井家の邸宅があった場所に創建された神社であり、邸宅内にあった 蹴鞠の神様 「 精大明神 」 が現在も祀られており、サッカーなどの球技をはじめとする スポーツの神様 として厚く信仰されています。
2007年01月23日
浮気封じの白砂
『 浮気封じの白砂 』平安時代、宇多天皇 に入内 ( じゅだい : 天皇の皇后として宮中に入ること ) した 皇后 は、次第に 天皇の心が自分から離れている ことに気付き、天皇の心を取り戻そうとしました。
ある夜、“ 櫟谷七野神社 ( いちいだにななのじんじゃ ) の社前に白砂を積み上げて願うと天皇の心を取り戻せる ” という夢のお告げがあり、皇后がさっそくお告げ通りに社前に白砂を積み上げると見事に願いが叶ったと伝えられています。以来、櫟谷七野神社 の社前に白砂を積むと 『 浮気封じ、復縁、愛の復活 』 の願いが叶うと伝えられています。






