2010年03月31日

長谷川等伯・久蔵

 『 長谷川等伯・久蔵 』

  安土桃山時代に活躍した 稀代の絵師 『 長谷川等伯 』 ( はせがわとうはく ) と 息子 『 久蔵 』 ( きゅうぞう ) は、豊臣秀吉の亡き愛児・鶴松の菩提を弔う寺院として創建された 祥雲禅寺 の障壁画を手掛けました。

  現在、東山七条の 智積院国宝 として 「 楓図 」 ( 等伯筆 ) と 「 桜図 」 ( 久蔵筆 ) が伝えられ、とくに 「 桜図 」 には 久蔵 ( 25歳 ) の 生き生きとした生命力 を感じるとともに、翌年に 急死 ( 26歳 ) する 短命の人生を自ら予感したような儚さ を感じることができます。


■ らくたびスペシャル講座
4/3(土) -稀代の絵師- 『 長谷川等伯 』

安土桃山時代の絵師・長谷川等伯は今年没後400年を迎え、京都国立博物館で特別展覧会(4/10~5/9)が催されます。その特別展覧会を先取りした事前学習特別講座として、長谷川等伯の人生や作品はもちろん、京都の絵画史から同時代に活躍した狩野派や琳派なども講義します。

■ 日時 : 4月3日(土) 受付 18:00~ / 講座 18:15~20:30
■ 場所 : ウイングス京都
■ 受講料 : 3000円 ( 会員2500円 )

■ 詳細&受講申込みは、らくたびホームページ こちら ) から、
 または 075-257-7321 へお電話ください。

  

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2010年02月17日

二十四孝

 『 二十四孝 』

  儒教の教え を重んじた中国の歴代王朝では、治世の上で “ 親孝行 ” が特に重要と位置づけ、古く親孝行であった人物を二十四人取り上げた物を 『 二十四孝 』 ( にじゅうしこう ) として、後世の模範として長く語り継いできました。

  御香宮神社表門 は、元和8 ( 1622 ) 年、徳川頼房の寄進によって建立された 旧伏見城大手門 とされ、豪華な彫刻の装飾の中に 「 二十四孝 」 を題材とする見事な透かし彫りが設けられています。
  

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2009年12月14日

赤穂浪士

 『 赤穂浪士 』

  元禄13 ( 1701 ) 年、幕臣・高家筆頭・吉良上野介 ( きらこうずけのすけ ) は、勅使接待役・赤穂藩主・浅野内匠頭 ( あさのたくみのかみ ) を辱しめ、江戸城中で浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけ、即日、浅野内匠頭は切腹・除封の処分となりました。

  その後、元禄15 ( 1703 ) 年 12月14日、赤穂藩浅野家の家老・大石内蔵助 ( おおいしくらのすけ ) が 赤穂浪士四十六人 を率いて、吉良上野介の邸宅に討ち入りし、見事に 主君の仇 を討ちました。

地図 : 赤穂義士四十六士遺髪塔
  

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2009年11月22日

小督

 『 小督 』

  平家物語 に登場する 琴の名手 『 小督 』 ( こごう ) は、第80代・高倉天皇寵愛 を受けました。

  ところが、高倉天皇の皇后平清盛 の娘・建礼門院徳子 であり、小督は平清盛に憎まれて宮中を去り、嵯峨野 に身を隠しました。

  小督への想いを断てない高倉天皇は、臣下の 源仲国嵯峨野 へと遣り、美しい琴の音をたよりに小督を見つけ出し、宮中へと戻されました。

  現在、嵐山の渡月橋近くには 小督塚 が立てられいます。

地図 : 小督塚
  

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2009年11月20日

祇王寺



 『 祇王 』

  嵯峨野の 祇王寺 ( ぎおうじ ) は、法然上人の弟子・念仏坊良鎮 ( ねんぶつぼうりょうちん ) が往生院を創建したことに始まると伝えられています。

  祇王寺という寺名は、当地に隠棲した 『 祇王 』 という女性の名前に由来し、平家物語によれば、平清盛の愛を失った祇王が母と妹とともに剃髪して尼僧となり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられています。

晩秋になると庭園には紅葉が散り積もり、緑の苔庭は一面の紅葉色に染まります。
  

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2009年11月13日

足利尊氏

 『 足利尊氏 』

  かつて 『 足利尊氏 』 ( あしかがたかうじ ) は 「 高氏 」 と名乗って鎌倉幕府に仕えましたが、後醍醐天皇 の意を受けて 倒幕 を果たし、勲功第一として天皇の名 ( 尊治 ) から一字を賜わって 「 尊氏 」 と改名しました。

  しかし、尊氏は後醍醐天皇の始めた 天皇親政 ( しんせい : 天皇みずからが行う政治 ) による復古的な政治 「 建武の新政 」 に反発して反旗をひるがえし、また後醍醐天皇も 尊氏追討の命 を出して対立し、朝廷が 北朝 ( 京都 ) と 南朝 ( 奈良 ・ 吉野 ) の二つに分かれた 南北朝時代 へ突入しました。
  

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2009年11月06日

吉井勇

 『 吉井勇 』

   かにかくに
    祇園は恋し 寝るときも
      枕のしたを水のながるる
               - 吉井勇 -

  祇園をこよなく愛した歌人 『 吉井勇 』 ( よしいいさむ : 1886-1960年 ) は、祇園白川沿いのお茶屋 大友 ( だいとも : 戦時中の疎開により廃業 ) の女将 磯田多佳 ( いそだたか ) と親交深く、しばしば大友の奥座敷で横になって過ごしていました。

  かつて大友のあった場所には現在、吉井勇の古希 を祝って 谷崎潤一郎 らが昭和30 ( 1955 ) 年に建立した石碑が立ち、毎年11月8日 ( 明日 : 石碑建立の日 )、祇園甲部の芸舞妓が白い菊を手向けて吉井勇を偲ぶ 「 かにかくに祭 」 が行われています。

『 かにかくに祭 』  祇園白川
   11月8日 ( 日 )
   「 かにかくに 」 と刻まれた歌碑の前で、
   祇園をこよなく愛した明治の歌人吉井勇をしのぶ集い
   多くの芸舞妓が参列して献花などが行われる
  

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2009年10月23日

勢至丸

 『 勢至丸 』

  浄土宗祖・法然上人 は、幼少期から 智慧の化身 といわれ、智慧を象徴する 勢至菩薩 ( せいしぼさつ ) の再来 とされました。

  そのため、法然上人は幼い頃から 『 勢至丸 』 ( せいしまる ) と呼ばれ、「 智慧第一の法然坊 」 とも称えられ、弟子の親鸞聖人は 「 大勢至菩薩は源空上人 ( 法然 ) の御本地 ( 本来の姿 ) である 」 という言葉を残しています。

  「 勢至 」 とは、偉大なる智慧の 「 勢 」 いで悟りの世界へ 「 至 」 らしめるという意味があります。
  

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2009年10月18日

六歌仙

 『 六歌仙 』

  平安前期、醍醐天皇 の命によって編纂された 古今和歌集 には、仮名 ( かな ) で書かれた 仮名序 と呼ばれる 序文 ( じょうぶん : 書物のはじめに趣旨などを書き記した文章 ) があり、本格的に和歌を論じた初の 歌論 として後世に大きな影響を与えました。

  この 古今和歌集仮名序 には、紀貫之 が名をあげて歌風を評した 六人の歌人 があり、在原業平僧正遍昭喜撰法師大友黒主文屋康秀小野小町 がその名を連ねています。

  六人の歌人は後世になって 『 六歌仙 』 ( ろっかせん ) と呼ばれるようになりました。
  

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2009年09月15日

黒田如水

 『 黒田如水 』

  豊臣秀吉 が造営した荘厳華麗な城郭風の邸宅は 聚楽第 ( じゅらくだい ) と呼ばれ、その北東部に 秀吉の参謀 として活躍した 『 黒田如水 』 ( くろだじょすい ) の邸宅がありました。

  本名は 黒田孝高 ( よしたか ) といい、中国攻めに向う秀吉に従って参謀として 毛利攻め などで活躍し、後に秀吉が朝鮮に出兵した 文禄・慶長の役 にも参戦しています。

  現在、黒田如水邸跡 の石碑が建つ町は 如水町 と名付けられています。

地図 : 黒田如水邸跡  

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2009年09月13日

在原業平

 『 在原業平 』

  平安前期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙に名を列する 『 在原業平 』 ( ありわらのなりひら ) は、醍醐天皇の命によって編纂された我が国最初の勅撰和歌集である 「 古今和歌集 」 ( こきんわかしゅう ) にも多くの秀歌が入集しています。

  古今和歌集仮名序 ( かなじょ : 古今和歌集のまえがきで、和歌の本質や成り立ちについて仮名で書かれたもの ) において、在原業平の情熱的な歌風は 「 心あまりて言葉たらず 」 と評されています。

地図 : 在原業平邸跡
  

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2009年09月11日

後白河天皇

 『 後白河天皇 』

  平安末期の 第77代 『 後白河天皇 』 ( ごしらかわてんのう ) は、大治2 ( 1127 ) 年 9月10日、第74代・鳥羽天皇の第4皇子として生まれました。

  天皇に即位する際、その 皇位継承 を巡って 崇徳上皇 ( 第75代天皇 ) と対立が深まり、貴族や武士を巻き込んだ内乱・保元の乱 が生じました。

  二条天皇に譲位した後は 上皇 となり、5代の天皇にわたって政治的に深く関与し、源平争乱の動乱期にあって 朝廷権威の存続 を巧みにはかりました。

地図 : 後白河天皇陵
  

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2009年09月08日

狩野元信

 『 狩野元信 』

  かつて日本画界において最大の画派を築いた 狩野派 ( かのうは ) は、室町中期の 狩野正信 ( まさのぶ ) が 室町幕府御用絵師 となり、狩野派の基礎を築きました。

  正信の子・『 狩野元信 』 ( もとのぶ ) も父に続いて幕府御用絵師として活躍し、漢画様式大和絵の技法 を取り入れた力強い装飾性をもつ様式を大成し、桃山障壁画の基礎を確立しました。

  元信が上京に建てた邸宅は、以後、松栄・永徳など狩野家歴代に受け継がれました。

地図 : 狩野元信邸跡
  

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2009年08月30日

陽成天皇

 『 陽成天皇 』

  第57代・陽成天皇 ( ようぜい ) は、第56代・清和天皇第一皇子 として生まれ、9歳で天皇に即位しました。 ところが、宮中で 臣下を殴殺する事件 を起こし、時の摂政・藤原基経 ( もとつね ) によって 廃位 させられました。

  しかし、一連の事件は、藤原基経が権力を手中にし、様々な 確執 から 藤原基経陽成天皇関係を悪化させた結果 と考えられています。

  一説には、基経が御所の外に花見を口実に陽成天皇を連れだして、そのまま廃位したといわれています。
  

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2009年08月29日

六孫王

 『 六孫王 』

  平安初期の皇族に生まれた 貞純親王 ( さだすみしんのう ) は、第56代・清和天皇 ( せいわてんのう ) の 六男 として生まれ、さらに貞純親王がもうけた子は、六男がもうけた清和天皇の ということから 『 六孫王 』 ( ろくそんのう ) と称されました。

  六孫王は、後に皇族を離れて 清和源氏の祖 となる 源経基 ( みなもとのつねもと ) と称し、京都駅の西あたりに邸宅を持っていたことから、現在も当地の 六孫王神社 に祭神として祀られています。

地図 : 六孫王神社
  

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2009年08月28日

清和天皇

 『 清和天皇 』

  平安初期の 第56代 『 清和天皇 』 ( せいわてんのう ) は、退位した後に 水尾 ( みずお : 京都市右京区の山間部にある集落 ) の地に入って隠棲したことから 水尾天皇 とも呼ばれています。

  清和天皇の六男・貞純親王 ( さだすみしんのう ) の子の 六孫王 ( ろくそんのう ) が 臣籍降下 ( 皇室を離れて臣下の位に降りること ) して 清和源氏の祖 となる 源経基 ( みなもとのつねもと ) となり、その子孫にあたる 源頼朝 は鎌倉幕府を開くなど、子孫は各地で繁栄しました。
  

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2009年08月27日

文徳天皇

 『 文徳天皇 』

  第55代・文徳天皇 ( もんとく ) は、寵愛していた更衣・静子 ( せいし ) が生んだ第1皇子・惟喬親王 ( これたか ) を皇太子とすることに期待を寄せました。

  しかし、次第に権勢を強めていた 藤原良房 ( よしふさ ) の圧力に屈し、良房が文徳天皇に嫁がせていた娘・明子 ( めいし ) が生んだ第4皇子・惟仁親王 ( これひと : 第56代・清和天皇 ) を皇太子とするなど、実権を良房に握られたまま、天安2 ( 858 ) 年 8月27日、32歳の若さで崩御しました。

地図 : 田邑陵 ( たむらのみささぎ : 文徳天皇陵 )
  

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2009年08月22日

新島襄

 『 新島襄 』

  寺町通丸太町を少し北へ歩くと、同志社の創立者 『 新島襄 』 ( にいじまじょう ) の旧宅が残されています。

  明治11 ( 1878 ) 年に竣工し、外観は コロニアルスタイル ( 17~19世紀、植民地時代のアメリカの建築様式 ) を基本としながらも、構造は 和風寄棟木造二階建て住宅 であり、内部には 畳敷箱階段 などの伝統的手法も用いられています。

  明治初期に作られた 国産の洋家具 が数多く見られるなど、当時の貴重な面影を残しています。  

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2009年08月17日

三条実美

 『 三条実美 』

  幕末の公家のひとり 『 三条実美 』( さんじょうさねとみ ) は、長州藩 と密接な関係を持ち、文久2 ( 1862 ) 年には 江戸幕府攘夷 ( じょうい : 外国勢力を撃ち払って国内に入れないこと ) の実行を督促する 勅使 のひとりとして江戸へ赴くなど、尊王攘夷派の公家 として活躍しました。

  明治新政府が樹立した後は、議定や副総裁などの要職を経て、最高官職の 太政大臣 まで務めました。

  現在、京都御所の東に鎮座する 梨木神社 に祭神として祀られています。
  

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2009年08月05日

玄宗皇帝 と 楊貴妃

 『 玄宗皇帝 と 楊貴妃 』

  中国・第六代皇帝 『 玄宗 』 ( げんそう : 在位 712-756年 ) は、当初は 善政 をしいて 唐の全盛期 を築きましたが、晩年になると 絶世の美 を誇った 『 楊貴妃 』 ( ようきひ ) を 溺愛 し、最後は反乱を招いて皇帝の座を退きました。

  建長7(1255)年、僧・湛海 ( たんかい ) が中国・南宋から持ち帰ったと伝えられる 聖観音像 は、玄宗皇帝 が亡き 楊貴妃 を偲んで彫らせたものといわれ、現在、泉涌寺観音堂楊貴妃観音像 として祀られています。

  

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2009年08月03日

豊臣秀吉・秀次・秀頼

 『 豊臣秀吉・秀次・秀頼 』

  天下人・豊臣秀吉嫡子 ( ちゃくし:家督を相続する世継ぎ ) に恵まれず、数少ない肉親である 豊臣秀次 ( ひでつぐ : 姉・日秀の子 ) を重用して関白の位を譲り、秀吉朝鮮出兵 ) と 秀次国内政治 ) の二元政治を行いました。

  しかし、文禄2 ( 1593 ) 年 8月3日、豊臣秀吉に待望の嫡子・豊臣秀頼 ( ひでより ) が生まれると、秀吉秀次 の関係は次第に 悪化 し、謀反の疑い をかけられて失脚し、秀次は 切腹 させられました。
  

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2009年06月28日

高山彦九郎

 『 高山彦九郎 』

  延享4 ( 1747 ) 年、上野国新田郡細谷村 ( 現在の群馬県太田市 ) に生まれた 『 高山彦九郎 』 ( たかやまひこくろう ) は、勤皇 ( きんのう : 天皇に忠誠を尽くすこと ) を唱えながら諸国を歩いた江戸中期の 勤王家尊王家 ) として知られています。

  晩年は幕府に行動を監視され、寛政5 ( 1793 ) 年 6月28日、九州・久留米で自刃して46歳の生涯を閉じました。

  三条大橋東詰 には、京都御所の方向を望んで拝する 高山彦九郎の銅像 があります。

地図 : 高山彦九郎・御所望拝像
  

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2009年06月25日

菅原道真

 『 菅原道真 』

  承和12 ( 845 ) 年 6月25日 に誕生した 『 菅原道真 』 ( すがわらのみちざね ) は、宇多・醍醐天皇の治世で優れた 政治家 として活躍しましたが、最期は九州・大宰府左遷 されて 悲運の死 を遂げました。

  菅原道真の乳母 ( めのと : 生母にかわって赤児に乳を与え育てる女性 ) であった 多治比文子 ( たじひのあやこ ) は、邸宅内に道真を祀る祠 ( ほこら ) を創建したと伝えられ、その祠が京都駅近くに鎮座する 文子 ( あやこ ) 天満宮 の発祥と伝えられています。
  

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2009年05月12日

仲恭天皇

 『 仲恭天皇 』

  鎌倉時代の第85代 『 仲恭天皇 』 ( ちゅうきょうてんのう ) は、父・順徳上皇 ( 第84代天皇 ) から譲位されて天皇に即位しましたが、祖父・後鳥羽上皇 ( 第82代天皇 ) が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた 承久の乱敗北 すると、仲恭天皇も 廃位 となりました。

  仲恭天皇は在位70日余りで、これは歴代天皇で最も在位期間が短く、また当時は在位が認められていなかったことから 九条廃帝半帝 と呼ばれていましたが、明治3 ( 1870 ) 年に 「 仲恭天皇 」 と追号されました。

地図 : 仲恭天皇陵
  

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2009年05月11日

土方歳三

 『 土方歳三 』

  鬼の副長 として隊士からも恐れられた 新選組副長 『 土方歳三 』 ( ひじかたとしぞう ) は、隊士を組長・助勤・監察など 系統的に組織 し、局中法度 を制定して隊の規律を高め、市中の治安監視 とともに 尊王攘夷派 などの 弾圧 を行いました。

  しかし、江戸幕府の消滅とともに形勢は悪化し、鳥羽伏見の戦い会津戦争 など各地で転戦したのち、明治2 ( 1869 ) 年 5月11日、箱館戦争 に参戦して五稜郭で戦い、敵の銃弾に倒れて亡くなりました。


激動の時代・幕末の歴史と史跡をめぐる
 No.029 らくたび文庫
 『 京の歴史NAVI -動乱の幕末編-
  著者 : 若村 亮  詳細は こちら

  激動の時代・幕末の
    歴史と史跡をめぐる


複雑に絡み合う幕末の歴史をわかりやすく時代順に紐解いて解説し、幕末ゆかりの史跡をエリアマップとともに紹介しています。
誌面では、新選組隊士に扮装した若村がご覧いただけます ( 笑 )

参考ブログ記事 : 映画村で本格扮装! ( 2008年4月8日記事 )
  

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2009年04月27日

牛若丸

 『 牛若丸 』

  『 牛若丸 』 ( 後の源義経 ) は、源義朝 ( よしとも : 義経の父 ) が平治の乱で平清盛率いる平氏に敗れると、捕らえられて山深い 鞍馬寺 に預けられました。

  幼い牛若丸でしたが、昼は鞍馬寺で学業に励み、夜が更けると鬱蒼とした鞍馬山で 天狗 ( てんぐ ) に兵法や剣術を学んでいたとも伝えられています。

  鞍馬から貴船へ通じる 木の根道 には、義経堂義経背比石 など義経ゆかりの史跡が今も残っています。  

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2009年03月17日

源融

 『 源融 』

  平安初期に朝廷に仕えた 『 源融 』 ( みなもとのとおる ) は、もとは 嵯峨天皇の皇子 として生まれ、のちに 「 源 」 の姓 を授けられて 臣籍降下 ( しんせきこうか : 皇族を離れて一般の臣民になること ) し、のちに 左大臣 となりました。

  現在の五条河原町付近に広大な邸宅・ 河原院 を営んだことから 「 河原左大臣 」 とも称されました。

  源融『 源氏物語 』 に登場する 光源氏のモデル ともいわれ、冷皇帝や朱雀院が訪れた光源氏の邸宅・ 六条院 のモデルも、源融の河原院 といわれています。  

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2009年03月16日

鷹司家

 『 鷹司邸跡 』

  鎌倉時代以降、天皇を助けて政務をつかさどる摂政・関白の重職を任ぜられる、公家の 近衛家九条家二条家一条家鷹司家 の五家を 「 五摂家 」 ( ごせっけ ) といいます。

  『 鷹司家 』 ( たかつかさけ ) は、鎌倉中期に藤原北家嫡流の近衛家実の四男兼平を祖とする公家の名家です。

  戦国時代には鷹司忠冬を最後に一度断絶しましたが、江戸初期に二条信房が鷹司家を再興し、江戸後期から幕末にかけては鷹司家が関白を務めることが多く、名家として近代まで続きました。  

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2009年02月12日

那須与一

 『 那須与一 』

  都を落ちた 平家一門 は、四国・屋島へ総退却し、追う手を緩めぬ 源義経屋島の合戦 となりました。

  源氏優勢で戦う中、太陽が傾いて一時休戦となりました。 その時、沖に扇を高く掲げた小船が現れ、それを見た源義経は味方一番の弓の名手 『 那須与一 』 ( なすのよいち ) を呼び、「 あの扇の的を見事に射止めよ 」 と命じました。

  無想で放たれた那須与一の矢は見事に扇の的を射止め、両軍から賞賛の歓声が鳴り止まなかったと伝えられています。

地図 : 即成院 ( 那須与一 墓 )  

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2009年01月29日

山名宗全

 『 山名宗全 』

  室町中期の武将 『 山名持豊 』 ( やまなもちとよ : 法名は 宗全 ・ そうぜん ) は、嘉吉元 ( 1441 ) 年に勃発した 嘉吉の乱 ( かきつのらん ) において、守護大名・赤松満祐が率いた軍勢を見事に討伐し、その戦功から次第に権勢を高めていきました。

  その後、将軍の後継者争い から発展した 応仁の乱 では、日野富子 とその子・足利義尚 ( よしひさ ) を支持して西軍の大将 ( 西陣 の地名の由来 ) となり、細川勝元の東軍と戦うこととなりましたが、文明5 ( 1473 ) 年、69歳にて病没しました。

地図 : 山名宗全邸宅跡 石碑  

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