2017年05月20日

5/20(土) ≪ 天皇陵めぐり シリーズ第4弾 ≫

本日は、京都さんぽの人気シリーズ ≪ 天皇陵めぐり ≫ 第4弾が開催されまして、最高気温32℃に迫る炎天下の下、東山の泉涌寺&東福寺の界隈をめぐり、歴代124天皇の中から17天皇の陵墓を参拝してきました。



本日一番の熱弁を振るった、幕末の孝明天皇陵です ( 笑 )

  のちのつきのわのひがしのみささぎ
◆ 後月輪東山陵 ( 第121代・孝明天皇陵 )


天皇家の菩提寺として格式高い歴史を受け継ぐ泉涌寺には、鎌倉時代の第86代・後堀河天皇、第87代・四条天皇をはじめ、江戸時代の第108代・後水尾天皇から第121代・孝明天皇まですべての天皇陵があるため、一気に16天皇陵を参拝しました。

そして、東福寺の南東に陵墓がある、第85代・仲恭天皇陵も参拝しました。

  くじょうのみささぎ
◆ 九條陵 ( 第85代・仲恭天皇陵 )


ちなみに、歴代天皇の陵墓は長い歴史の中で荒れ果てて場所がわからなくなったものも多く、明治時代になって古文書などから埋葬された場所を推定して造営された陵墓もあります。 その際に参考として宮内庁が管理する 「 陵墓参考地 」 という場所が設けられ、仲恭天皇の陵墓参考地とされる場所が東福寺の西側にあり、現在は宮内庁の管理となっています。

東山本町陵墓参考地


第85代・仲恭天皇とは、承久の乱の勃発する激動の時代にわずか4歳で天皇に践祚 ( せんそ : 天皇の位を受け継ぐ ) したが、承久の乱に勝利した鎌倉幕府によってわずか77日で廃位させられた歴代天皇の中で最短の在位期間となる悲劇の天皇で、即位式を執り行うこともできず、「 廃帝 」 「 半帝 」 「 九条廃帝 」 などと呼ばれ、その陵墓もさまざまが伝えられ、この東山本町陵墓参考地にはかつて 「 廃帝社 」 と呼ばれる墳丘があったことから、仲恭天皇陵とも推定されています。

さて、天皇陵めぐりシリーズは、次回 6/16(金) で第5弾となり、第6弾は 7/5(水) 大原へ、第7弾は 8/5(土) 嵐電沿線の陵墓へと、まだまだ続きます、こうご期待ください! ( 笑 )
  

2015年10月26日

≪ 琳派 -京を彩る- ≫ in 京都国立博物館・特別展覧会

一昨日の 土曜日 は、よみうりカルチャー特別講座 「 琳派 」 4回シリーズ最終回 で、まずは 養源院 を拝観して俵屋宗達 筆 「 白象図 」 などを 鑑賞 して、最後京都国立博物館 へ。

■ 京都国立博物館・特別展覧会
【 琳派・京を彩る 】 公式HP http://www.kyohaku.go.jp/jp/special/


午後3時 過ぎに 入場 しましたが、待ち時間も無くスムーズ でした~♪

本日は休館日で、明日 からは 宗達筆・光琳筆・抱一筆「 風神雷神図屏風 」 3つ揃う ( 11月8日まで ) ことから、さらに 混雑予想 されます。 下記、京博・公式ツイッター では、混雑状況 を随時お知らせしていますので、参考にして出掛けてみてください。

■ 京博ツイッター・混雑状況
https://twitter.com/rinpa_miyako
  

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2015年10月26日

10/22 ≪ 時代祭 - 有料観覧席 - ≫ in おき・らくたび

先週・木曜日は 時代祭 が執り行われ、KBS京都ラジオ 「 ほっかほかラジオ 」 のリスナーの皆さんと 京都を散策する企画 「 おき・らくたび 」 として、時代祭観覧 してきました!

時代祭


今年の話題のひとつは、江戸時代婦人列 で登場する 京都豪商・中村内蔵助衣装新調 されたこと。 黒い着物の下に着る 黄色中着新調 されましたので、パッと見た目ではわかりにくいですが・・・ ( 笑 )

豪商・中村内蔵助の妻


豊公参朝列 / 牛車


室町幕府執政列 / 足利将軍


神幸列 / 鳳輦 ( 桓武天皇を祀る )


約2000人の行列が都大路を練り歩き、まさに 歴史絵巻 のようでした!
  

2012年06月25日

菅原道真

 『 菅原道真 』

  承和12 ( 845 ) 年 6月25日 に誕生した 『 菅原道真 』 ( すがわらのみちざね ) は、宇多・醍醐天皇の治世で優れた 政治家 として活躍しましたが、最期は九州・大宰府左遷 されて 悲運の死 を遂げました。

  菅原道真の乳母 ( めのと : 生母にかわって赤児に乳を与え育てる女性 ) であった 多治比文子 ( たじひのあやこ ) は、邸宅内に道真を祀る祠 ( ほこら ) を創建したと伝えられ、その祠が京都駅近くに鎮座する 文子 ( あやこ ) 天満宮 の発祥と伝えられています。
  

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2012年06月04日

伝教大師・最澄

 『 伝教大師・最澄 』

  近江国 ( 滋賀県 ) に生まれた 『 最澄 』 ( さいちょう ) は、民衆を救うための新しい仏教を求めて 比叡山 にこもって修行を積み、延暦23 ( 804 ) 年、留学僧として唐 ( 中国 ) へ渡って天台教学や密教・禅などを学び、帰国して日本独自の 天台宗 を開きました。

  晩年は比叡山内に 戒壇院 を設けることに力を尽くしましたが、旧仏教 ( 奈良 ) の抵抗で設立が認められず、弘仁13 ( 822 ) 年 6月4日、最澄は亡くなり、没後7日目、念願の戒壇院設立が認められました。
  

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2012年05月17日

宮本武蔵

 『 宮本武蔵 』

  江戸初期の剣豪 『 宮本武蔵 』 ( みやもとむさし ) は、各地で決闘を重ねて剣の腕を上げ、京へ上洛して 吉岡道場 との 壮絶な決闘 に勝利して、一躍その名は天下に轟きました。

  吉岡一門との決闘では、比叡山の麓にあたる 一乗寺 での戦いが知られ、京の都から比叡山へ往来する人びとが道標として眺めてきた 一乗寺下がり松 の付近で決闘が繰り広げられたと伝えられています。
  

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2012年04月24日

狩野元信

 『 狩野元信 』

  かつて日本画界において最大の画派を築いた 狩野派 ( かのうは ) は、室町中期の 狩野正信 ( まさのぶ ) が 室町幕府御用絵師 となり、狩野派の基礎を築きました。

  正信の子・『 狩野元信 』 ( もとのぶ ) も父に続いて幕府御用絵師として活躍し、漢画様式大和絵の技法 を取り入れた力強い装飾性をもつ様式を大成し、桃山障壁画の基礎を確立しました。

  元信が上京に建てた邸宅は、以後、松栄・永徳など狩野家歴代に受け継がれました。
  

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2012年03月08日

定朝

 『 定朝 』

  平安前期、遣唐使 の往来によって中国から多くの文化や制度が日本へ伝来し、朝廷や貴族の間では 唐風文化 が盛んになりました。

  しかし、唐風文化の伝来は逆に日本独自の 和様文化 を見つめるきっかけとなり、遣唐使が廃止された平安後期、貴族による和様の 国風文化 が盛んになりました。

  仏像彫刻 も日本史上屈指の仏師として名高い 『 定朝 』 ( じょうちょう ) によって 和様彫刻 が完成され、穏やかで優しい姿をした 定朝様式 と呼ばれる仏像が数多く作られました。
  

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2012年02月21日

相応和尚

 『 相応和尚 』

  平安前期の 天台僧 『 相応和尚 』 ( そうおうかしょう ) は、天長8 ( 831 ) 年に近江国で生まれ、15歳で 比叡山延暦寺 に入って 円仁弟子 として 天台密教 を修し、悪霊の調伏 ( ちょうぶく : 怨敵や魔物を打破して降伏されること ) や 清和天皇の歯痛を治す など数々の霊験を示しました。

  その後、貞観7 ( 865 ) 年、比叡山の南端に 不動明王 を本尊に祀る 無動寺 ( むどうじ ) を建立し、その辺り一帯の 無動寺谷 ( むどうじだに ) を中心に比叡山中を歩き巡って悟りを目指す 回峰行 ( かいほうぎょう ) を創始しました。

  国師号 の始まりとなる 最澄 ( さいちょう ) の 伝教大師 ( でんぎょうだいし ) と 円仁 ( えんにん ) の 慈覚大師 ( じかくだいし ) は、相応和尚が朝廷に上奏 ( じょうそう : 申請すること ) して賜ったことに始まります。
  

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2011年12月17日

角倉了以

 『 角倉了以 』

  安土桃山から江戸初期にかけて活躍した豪商 『 角倉了以 』 ( すみのくらりょうい ) は、文禄元 ( 1592 ) 年に豊臣秀吉の許可を得て安南国 ( 現在のベトナム ) に貿易船を派遣するなど、貿易商 として大いに活躍しました。

  国内の 諸河川の開発整備 にも積極的に従事し、慶長11 ( 1606 ) 年には 大堰川 ( 保津川 ) や 富士川 ( 静岡県 ) を開削して疎通させ、また慶長16 ( 1611 ) 年には京都と伏見を結ぶ運河として 高瀬川 を開削し、二条より鴨川の水を引き込んで水運を確立しました。
  

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2011年09月20日

祐井

 『 祐井 』

  明治天皇 は、第121代 孝明天皇 ( こうめいてんのう ) と、公家の娘 ・ 中山慶子 ( なかやまよしこ ) の間に生まれ、幼名を 「 祐宮 」 ( さちのみや ) と名付けられました。

  祐宮が生まれた翌年の京都は夏の日照りが厳しく、中山家では敷地内に井戸を掘ってみることになりました。 すると清らかな水が湧き出て人びとの渇きを潤し、これを聞いた孝明天皇は、井戸に祐宮の一字をとって 『 祐井 』 ( さちのい ) と命名しました。

  京都御所北側の中山邸跡には、現在も祐井が残っています。
  

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2011年08月18日

豊臣秀吉

 『 豊臣秀吉 』

  尾張国の貧しい家に生まれた 木下藤吉郎 ( きのしたとうきちろう ) は、織田信長に仕えて次第に頭角をあらわし、羽柴秀吉 ( はしばひでよし ) と名乗りました。

  本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後、秀吉は信長の夢であった天下統一への道を歩み、天下人となって関白へ就任し、豊臣姓 を賜りました。

  慶長3 ( 1598 ) 8月18日 ( 今日 )、秀吉は五大老筆頭・徳川家康らに息子の豊臣秀頼を託して伏見城で没しました、享年 62歳。

   露と落ち
     露と消えにし 我が身かな

        難波のことも 夢のまた夢 - 豊臣秀吉 辞世の句 -
  

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2011年07月29日

平重盛

 『 平重盛 』

  平清盛の長男 『 平重盛 』 ( たいらのしげもり ) は、温厚で冷静沈着・文武両道で、清盛が死んでも重盛さえいれば平家は安泰だ といわれるほどの人物でした。

  鹿ケ谷の陰謀に激怒した父清盛の後白河法皇幽閉を身をもって制止するなど、清盛を諌めることができる数少ない人物 でした。

  ところが、治承3 ( 1179 ) 年 7月29日 ( 今日 )、重盛は父清盛に先立ち、病に倒れました。 法皇との仲介役を失った平家一門は、関係を悪化させて凋落の道を辿ることになりました。
  

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2011年06月24日

別当大師

 『 別当大師 』

  平安初期の僧・光定 ( こうじょう ) は、伊予国北部 ( 愛媛県松山市北部 ) に生まれ、伝教大師・最澄弟子 となって 延暦寺大乗戒壇院 の建立に尽力しました。

  最澄亡きの後は天台宗の経営と維持に生涯を尽くすなど 天台宗の歴史上で忘れてはならない高僧 となり、延暦寺の総別当 ( 事務の総括 ) を任命されたことから 『 別当 ( べっとう ) 大師 』 の称号が与えられました。

  天安2(858)年、80歳で入寂し、墓は尊敬して止まなかった伝教大師・最澄の廟所 ( 浄土院 ) の隣に寄り添うようにして現在も佇んでいます。
  

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2011年06月20日

徳川吉宗

 『 徳川吉宗 』

  江戸幕府8代将軍 『 徳川吉宗 』 ( よしむね ) は 徳川御三家紀州藩 ( 現在の和歌山県 ) に生まれ、7代将軍 徳川家継 ( いえつぐ ) の死によって 徳川宗家 の血筋が途絶えると、宗家以外から初めて将軍に就任しました。

  当時の幕府財政は破綻寸前の危機的状況にありましたが、増税質素倹約 による改革を断行して 財政再建 を果たしました。

  庶民の生活を安定させるために 米価の調節 に尽力し、米将軍 とも呼ばれました。

  寛延4 ( 1751 ) 年 6月20日 死去、享年68。
  

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2011年06月04日

村岡局

 『 村岡局 』

  幕末の勤王家・津崎矩子 ( つざきのりこ ) は、尊王家の公家・近衛忠煕 ( ただひろ ) に仕えて女中名を 『 村岡局 』 ( むらおかのつぼね ) と称しました。

  勤王家 として熱心に活動を広げ、薩摩藩士・西郷隆盛 や勤王僧・月照 などと盛んに交流を行いましたが、安政5 ( 1858 ) 年、安政の大獄 で捕らえられて京都町奉行所の厳しい取調べを受けるなど、苦難の人生を歩みました。

  明治維新後は故郷の奥嵯峨に佇む 直指庵 で、静かな余生を送りました。
  

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2011年05月24日

道元禅師

 『 道元禅師 』

  鎌倉初期、『 道元禅師 』 ( どうげんぜんじ ) は中国へ渡って修行を重ね、後に 日本曹洞宗開祖 となりました。

  真の仏道 を求めて修行を重ねた道元禅師は何ひとつ持たず、ただ “ 只管打坐 ” ( しかんたざ : ただひたすらに坐るの意 ) という 坐禅の教え のみを身につけて帰国しました。

  師匠の 「 深山幽谷に住み、真の弟子を育てよ 」 という言葉に基づき、道元禅師は 寛元2 ( 1244 ) 年、永平寺 ( 曹洞宗総本山 : 福井県 ) を開いて多くの弟子を育て、今日に続く曹洞宗の礎を築きました。
  

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2011年05月11日

土方歳三

 『 土方歳三 』

  鬼の副長 として隊士からも恐れられた 新選組副長 『 土方歳三 』 ( ひじかたとしぞう ) は、隊士を組長・助勤・監察など 系統的に組織 し、局中法度 を制定して隊の規律を高め、市中の治安監視 とともに 尊王攘夷派 などの 弾圧 を行いました。

  しかし、江戸幕府の消滅とともに形勢は悪化し、鳥羽伏見の戦い会津戦争 など各地で転戦したのち、明治2 ( 1869 ) 年 5月11日、箱館戦争 に参戦して五稜郭で戦い、敵の銃弾に倒れて亡くなりました。
  

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2011年04月20日

茶屋四郎次郎

 『 茶屋四郎次郎 』

  江戸時代の京都の豪商 『 茶屋四郎次郎 』 ( ちゃやしろじろう ) とは、本姓を中島といい、安土桃山時代の 茶屋清延 ( きよのぶ ) を 茶屋家初代 とし、以後代々の当主が 茶屋四郎次郎襲名 する習わしでした。

  初代・茶屋清延徳川家康御用商人 となり、二代・茶屋清忠 ( きよただ ) が初代の地盤を引き継いで 京都町人頭 にも任命されて権勢を誇り、三代・茶屋清次 ( きよつぐ ) は 朱印船貿易 の特権を得て貿易によって莫大な富を得て、その財産で 茶道具 を集め、さらに 芸術家 を熱く 支援 しました。

地図 : 茶屋四郎次郎 邸宅跡
  

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2011年04月15日

吉野太夫

 『 吉野太夫 』

  江戸時代初め、京はもとより、遠く江戸にまで “ 京の島原に浮舟あり ” と知られた名妓がいました。 浮舟太夫 ( うきふねだゆう ) は絶世の美女というだけではなく、和歌や茶道、書道や生け花など、諸芸どれをとっても並ぶ者がない才気も持つ、まさに 当世一の名妓 でした。

  春、桜が咲き誇る島原で、浮舟はまだ見たことのない 吉野山の桜 を想い浮かべながら歌を詠みました。

   ここにさへ
     さぞな吉野は 花ざかり

  当世一の名妓に当世一の吉野桜、人はいつしか浮舟の名を 『 吉野太夫 』 と呼ぶようになりました。
  

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2011年03月31日

花山天皇

 『 花山天皇 』

  平安中期の 第65代 『 花山天皇 』 ( かざんてんのう ) は、在位中に 荘園 ( しょうえん : 貴族や社寺が諸国に私的に領有した土地 ) の増大を抑制するなど積極的な政治を行ったが、強大な権力を持つ 藤原兼家 ( かねいえ ) が自らの孫にあたる皇太子を天皇として即位させるために陰謀をめぐらせて、花山天皇はわずか2年足らずで 退位 させられました。

  退位した 花山上皇熊野詣西国三十三ケ所観音霊場 を巡礼したといい、現在は 紙屋川上陵 ( 北区衣笠 ) の陵墓で眠っています。

地図 : 花山天皇・紙屋川上陵

  

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2011年03月26日

西行

 『 西行 』

  平安末期から鎌倉初期の歌僧として知られる 『 西行 』 ( さいぎょう ) は、もとは 北面の武士 ( 上皇や法皇などの院御所の北面に詰めて近侍した武者 ) で、23歳で出家をし、陸奥から四国・九州まで諸国を旅して歌をのこし、最期は桜が咲き誇る頃に河内国 ( 大阪 ) 南葛城の弘川寺にて没しました。

  願はくは
    花のしたにて 春死なむ
                 その如月の望月のころ  - 西行 -

  西行の歌は心中の思いを述べた 述懐歌 に優れると評され、新古今集では最高の94首が入集しています。
  

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2011年03月25日

山部赤人

 『 山部赤人 』

  昔から歌人たちは桜の美しさや散るはかなさを歌に詠み、その想いを後世へと伝えてきました。

  奈良前期の官人・歌人であり、三十六歌仙のひとりにも数えられる 『 山部赤人 』 ( やまべのあかひと ) は、現存最古の歌集 「 万葉集 」 ( まんようしゅう ) に次のような歌が収められています。

  あしひきの 山桜花
    日並べて かく咲きたらば いと恋ひめやも

  意味 : 山に咲く桜の花が、いつまでもずっときれいに咲いていてくれるのなら、こんなに恋しく想ったりはしないでしょうに・・・
  

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2011年01月29日

尾形光琳

 『 尾形光琳 』

  「 燕子花 ( かきつばた ) 図屏風 」「 紅白梅図屏風 」 などの代表作を残した江戸中期の画家 『 尾形光琳 』 ( おがたこうりん ) は、万治元 ( 1658 ) 年、京都の 呉服商・雁金屋 の当主・尾形宗謙の次男として生まれました。

  本阿弥光悦俵屋宗達 を師と仰ぎ、二条家 ( 公家 )、津軽家酒井家 ( 大名 )、三井家住友家冬木家 ( 豪商 ) などに出入りし、大和絵 ( 平安時代以来の伝統的な絵画様式 ) を革新した大胆華麗な装飾画風を大成しました。

 妙顕寺 の東隣にある塔頭・泉妙院 に尾形光琳の墓があります。
  

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2010年11月27日

親鸞聖人

 『 親鸞聖人 』

  浄土真宗 は、本願寺派大本山 「 西本願寺 」 と 大谷派大本山 「 東本願寺 」 の両大本山を合わせると、現在、全国に 2万の末寺 ( まつじ : 大本山に属する寺院 ) を数え、2千万人の信徒を擁する大教団を形成しています。

  浄土真宗の開祖 である 『 親鸞聖人 』 ( しんらん : 1173 - 1262年、鎌倉初期の僧 ) は、比叡山で厳しい修業に励み、山を下りて浄土念仏を唱える 法然上人 を師と仰ぎ、布教に尽力しました。

  その後、親鸞聖人は浄土真宗を開いて民衆に広く説き、弘長2 ( 1262 ) 年 11月28日、民衆の救済を願いながら 90歳でこの世を去りました。
  

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2010年10月04日

ムラサキシキブ

 『 ムラサキシキブ 』

  花言葉は 「 聡明 」 。

  初夏に 可憐な淡紫色の花 を咲かせ、秋には 綺麗な濃紫色の実 をつけます。 その清楚で優美な実が平安時代の美しき女流作家 『 紫式部 』 と重ね合わせられ、いつしか 「 ムラサキシキブ 」 と呼ばれるようになりました。

  紫式部幼少から才女としての逸話 が多く、のちに 物語文学の最高峰 とされる 『 源氏物語 』、宮仕え中の日記 『 紫式部日記 』、全生涯にわたる歌集 『 紫式部集 』 など、後世の文学に大きな影響を及ぼす名作 をのこしました。
  

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2010年09月18日

芹沢鴨

 『 芹沢鴨 』

  文久3 ( 1863 ) 年 9月18日の深夜、新選組筆頭局長 『 芹沢鴨 』 ( せりざわかも ) は、屯所の八木邸で何者かに寝込みを襲撃されて亡くなりました。

  この芹沢暗殺には、土方歳三沖田総司 など、のちに新選組を率いる近藤派の数名によって実行されたともいわれ、現存する八木邸の柱には当時の激闘を物語る刀傷が深く刻み込まれています。

  一般的な 芹沢鴨の人物像豪傑で無法者 とされていますが、一説には 絵が上手くて子供達からは好かれていた ともいわれています。
  

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2010年05月07日

斯波義将

 『 斯波義将 』

  室町幕府 における 第一の重職 で、足利将軍家補佐 して 幕府の政務全般を統轄 する役職を 管領 ( かんれい )といいます。

  南北朝から室町時代にかけて活躍した武将 ( 守護大名 ) の 『 斯波義将 』 ( しばよしまさ ) は、管領として幕府の制度を整備し、幕政の基礎を固めた人物として知られています。

  上京区武衛陣町 には 斯波義将の邸宅跡 を示す石碑が立ち、付近の町名・武衛 ( ぶえい ) とは、兵衛府 ( ひょうえふ : 警護の兵を監督して天皇の身辺警固を司った官職 ) の 兵衛督 ( ひょうえのかみ:兵衛府の長官 ) をつとめた斯波氏の家号に由来しています。
  

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2010年04月16日

佐久間象山

 『 佐久間象山 』

  幕末兵学者思想家 として知られる 『 佐久間象山 』 ( さくましょうざん ) は、信州松代藩 ( 現在の長野県長野市 ) の 下級武士 の家に生まれ、22歳の頃に江戸へ赴いて、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎 ( さとういっさい ) に 朱子学 を学び、私塾象山書院 を開きました。

  後には 蘭学 ( 西洋の学術・文化 ) や 砲術 ( 火砲を扱う武術 ) にも精通し、“ 鎖国を廃して欧米との外交関係を結ぶべし ” という 開国論 を唱えましたが、反対派 ( 攘夷派 ) によって 暗殺 されました。

佐久間象山が眠る寺院
 妙心寺・大法院 特別公開中

 らくたびガイドと巡る京都さんぽ
 ≪ 仁和寺・御室桜 と 佐久間象山が眠る妙心寺・大法院を訪ねて ≫
 詳細・参加受付は、らくたびHP こちら ) から、
 または 075-257ー7321 までお電話ください。
  

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2010年04月15日

野々村仁清

 『 野々村仁清 』

  京都で産出する陶磁器の総称を 京焼 ( きょうやき ) といい、とくに江戸初期、『 野々村仁清 』 ( ののむらにんせい ) や 尾形乾山 ( おがたけんざん ) らによって大成された 色彩豊かな色絵陶器 が知られています。

  安土桃山時代、丹波国北桑田郡野々村 ( 現在の京都府美山町 ) で生まれた 清右衛門 は、のちに 仁和寺 の門前に 窯を開いた ことから、仁和寺「 仁 」清右衛門「 清 」「 仁清 」 の印銘を作品に使用し、卓説した色彩と意匠の才能を発揮して 色絵陶器 を完成させ、京焼の祖 とされています。
  

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