2012年05月01日

競馬会足汰式

 『 競馬会足汰式 』

  上賀茂神社下鴨神社 を総称して 「 賀茂社 」 と称し、古代豪族の賀茂氏が祖神をまつる神社として創建されました。

  賀茂社の例祭である 「 賀茂祭 」 ( 通称、葵祭 ) は、6世紀中頃に 凶作を鎮めて五穀豊穣を祈る神事 としてが始まったと伝えられ、上賀茂神社では毎年5月1日、葵祭の神事のひとつ 『 競馬会足汰式 』 ( くらべうまえ あしそろえしき ) が執り行われています。

  5日の競馬会神事に先立ち、馬の年齢や遅速を実際に走らせて見極め、本番の競馬会神事で疾走する組合せを決定する儀式です。

『 競馬会足汰式 』  上賀茂神社
   5月1日 午後1時頃~
   烏帽子に浄衣の装束で騎乗して馬が試走します
  

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2012年04月28日

勧修寺

 『 勧修寺 』

  醍醐天皇 が母の菩提を弔うために建立した 勧修寺 ( かじゅうじ ) は、皇室や藤原氏の厚い帰依を受け、代々法親王が住持してきた格式ある門跡寺院です。

  氷室の池 ( ひむろのいけ ) を中心とする池泉庭園は、平安時代の貴族庭園の趣きを今に伝える貴重な庭園で、“ 典雅の極致 ” ( てんがのきょくち ) と称えられています。

  また書院前庭には、天下の副将軍 水戸光圀 ( みとみつくに : 水戸黄門 ) 寄進の 勧修寺型灯籠 が置かれ、樹齢750年の名木 ハイビャクシン が周囲を覆っています。

  門跡寺院としての清麗と威厳を放つ屈指の名刹 ・ 勧修寺には、平安の昔から千年変わらぬ時間が流れています。
  

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2012年04月27日

御幸・行幸・行啓

 『 御幸・行幸・行啓 』

  上皇 ( じょうこう : 天皇を譲位後に受ける尊称 ) や 法皇 ( ほうおう : 出家した上皇の尊称 ) が外出することを 『 御幸 』 ( ごこう ) といい、白河上皇が雪の朝、小野に皇太后を訪ねた 小野御幸 や、平家滅亡後の初夏、後白河法皇が寂光院に建礼門院を訪ねた 大原御幸 などが知られています。

  上皇法皇 が外出することを 御幸 というのに対し、天皇 が外出することを 『 行幸 』 ( ぎょうこう ) といい、三后 ( さんこう : 太皇太后、皇太后、皇后 ) や 皇太子皇太子妃皇太孫 が外出することを 『 行啓 』 ( ぎょうけい ) といいます。
  

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2012年04月26日

当道職屋敷跡

 『 当道職屋敷跡 』

  中世以降、平曲 ( へいきょく : 平家物語を琵琶に合わせて曲節をつけて語るもの ) をはじめ、三弦 ( 三味線 )・箏曲 ( 琴曲 )・鍼灸按摩 などに携わる 盲人 により組織された 職能集団当道 ( とうどう ) といい、南北朝時代の 琵琶法師明石覚一 ( あかしかくいち ) が 当道座 と呼ばれる 盲人組織 を確立しました。

  のちに 当道座江戸幕府 から 保護 を受けて 全国的な機関 となりましたが、明治になって 当道制度廃止 されて当道座屋敷も廃されました。

地図 : 当道職屋敷跡
  

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2012年04月20日

茶屋四郎次郎

 『 茶屋四郎次郎 』

  江戸時代の京都の豪商 『 茶屋四郎次郎 』 ( ちゃやしろじろう ) とは、本姓を中島といい、安土桃山時代の 茶屋清延 ( きよのぶ ) を 茶屋家初代 とし、以後代々の当主が 茶屋四郎次郎襲名 する習わしでした。

  初代・茶屋清延徳川家康御用商人 となり、二代・茶屋清忠 ( きよただ ) が初代の地盤を引き継いで 京都町人頭 にも任命されて権勢を誇り、三代・茶屋清次 ( きよつぐ ) は 朱印船貿易 の特権を得て貿易によって莫大な富を得て、その財産で 茶道具 を集め、さらに 芸術家 を熱く 支援 しました。

地図 : 茶屋四郎次郎 邸宅跡
  

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2012年04月18日

野々村仁清

 『 野々村仁清 』

  京都で産出する陶磁器の総称を 京焼 ( きょうやき ) といい、とくに江戸初期、『 野々村仁清 』 ( ののむらにんせい ) や 尾形乾山 ( おがたけんざん ) らによって大成された 色彩豊かな色絵陶器 が知られています。

  安土桃山時代、丹波国北桑田郡野々村 ( 現在の京都府美山町 ) で生まれた 清右衛門 は、のちに 仁和寺 の門前に 窯を開いた ことから、仁和寺「 仁 」清右衛門「 清 」「 仁清 」 の印銘を作品に使用し、卓説した色彩と意匠の才能を発揮して 色絵陶器 を完成させ、京焼の祖 とされています。
  

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2012年04月15日

上品蓮台寺

 『 上品蓮台寺 』

  千本鞍馬口に位置する京都屈指の古刹 『 上品蓮台寺 』 ( じょうぼんれんだいじ : 真言宗智山派 ) は、今から約1400年前、聖徳太子母の菩提を弔う ために創建したと伝えられています。

  一時は 応仁の乱 で焼失して寺勢が衰えましたが、江戸時代には再興されて子院12ヵ寺をもつ大寺として繁栄し、その子院12ヵ寺より 「 十二坊 」 と呼ばれて町衆から厚い信仰を集めてきました ( 現在は子院3ヵ寺 )。

  現在、境内にはソメイヨシノ、枝垂れ桜、紅枝垂れ桜が同時に咲き誇り、見事な春の競演を見せてくれています。

地図 : 上品蓮台寺
  

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2012年04月02日

平安神宮

 『 平安神宮の桜 』

  平安神宮 は、明治28年に平安京遷都1100年を記念して創建され、平安京へ遷都した京都最初の天皇にあたる第50代・桓武天皇 と、京都最後の天皇となった第121代・孝明天皇 を祭神としています。

  本殿を取り囲む広大な神苑には、約150本の八重紅枝垂れ桜をはじめ、染井吉野や彼岸桜など約20種300本の桜が咲き誇ります。

  この一瞬の喜びこそ、
   去年の春が暮れて以来1年にわたって
    待ち続けていたものなのである
         - 谷崎潤一郎 『 細雪 』 より -
  

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2012年03月31日

花山天皇

 『 花山天皇 』

  平安中期の 第65代 『 花山天皇 』 ( かざんてんのう ) は、在位中に 荘園 ( しょうえん : 貴族や社寺が諸国に私的に領有した土地 ) の増大を抑制するなど積極的な政治を行ったが、強大な権力を持つ 藤原兼家 ( かねいえ ) が自らの孫にあたる皇太子を天皇として即位させるために陰謀をめぐらせて、花山天皇はわずか2年足らずで 退位 させられました。

  退位した 花山上皇熊野詣西国三十三ケ所観音霊場 を巡礼したといい、現在は 紙屋川上陵 ( 北区衣笠 ) の陵墓で眠っています。
  

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2012年03月27日

木花之開耶姫

 『 木花之開耶姫 』

  日本の神話に登場する女神 “ コノハナサクヤビメ ” は、古事記では 木花之佐久夜毘売、日本書紀では 木花之開耶姫 と記され、単に “ サクヤビメ ” とも呼ばれています。

  皇室の祖神の 天照大神 ( あまてらすのおおみかみ ) の孫である 瓊瓊杵尊 ( ににぎのみこと ) の妻となり、後世になって 富士の神 として祀られるようになりました。

  サクヤビメ には、富士山頂から花の種をまいて花を咲かせた という伝説があり、一説には “ サクヤビメ ” から “ 桜 ” の言葉が生まれた、といわれています。
  

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2012年03月21日

空海

 『 空海 』

  約1200年前、唐 ( 中国 ) へ渡る 遣唐使船 にひとりの無名の学僧が乗り込みました。

  若き日、室戸 ( 高知県 ) の岩屋での修行中に日夜見た広大な から 『 空海 』 ( くうかい ) という名を持つ学僧は、密教の真髄を学ぶ ために唐の 青龍寺 ( せいりゅうじ : 密教の総本山 ) へ向かいました。

  青龍寺には中国全土から三千人を超える学僧が集まっていましたが、その中でも 圧倒的な才能 を見せた空海は、わずか2年で密教の全てを習得し、正統な密教の伝承者 として日本に帰国して 日本真言宗を開く とともに、東寺民衆の救済 に力を傾け、また高野山で多くの弟子を育てました。

  日本史上最高の天才 といわれる 空海 は、承和2 ( 835 ) 年 3月21日、輝かしい足跡を残して 高野山入定 ( にゅうじょう : 死ではなく永遠の宗教的瞑想 ) しています。
  

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2012年03月18日

河原院跡

 『 河原院跡 』

  平安初期に朝廷に仕えた 『 源融 』 ( みなもとのとおる ) は、もとは 嵯峨天皇の皇子 として生まれ、のちに 「 源 」 の姓 を授けられて 臣籍降下 ( しんせきこうか : 皇族を離れて一般の臣民になること ) し、のちに 左大臣 となりました。

  現在の五条河原町付近に広大な邸宅・ 河原院 を営んだことから 「 河原左大臣 」 とも称されました。

  源融『 源氏物語 』 に登場する 光源氏のモデル ともいわれ、冷皇帝や朱雀院が訪れた光源氏の邸宅・ 六条院 のモデルも、源融の河原院 といわれています。
  

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2012年03月17日

殿司

 『 殿司 』

  東福寺涅槃図 を描いた室町初期の画僧・明兆 ( みんちょう ) は、墨の線描きと強い色彩を調和させた手法で多くの 頂相 ( ちんぞう : 高僧の肖像画 ) など描きました。

  明兆東福寺殿司 ( でんす ) となったために 兆殿司 ( ちょうでんす ) とも呼ばれています。

  『 殿司 』 ( でんす ) とは 禅寺 において、殿堂の掃除灯燭 ( とうしょく : ろうそく )、香華 ( こうげ : 仏前に供える香と花 )、供物 ( くもつ : 供え物 ) などを取り扱う 役僧 をいいます。
  

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2012年03月16日

鷹司家

 『 鷹司邸跡 』

  鎌倉時代以降、天皇を助けて政務をつかさどる摂政・関白の重職を任ぜられる、公家の 近衛家九条家二条家一条家鷹司家 の五家を 「 五摂家 」 ( ごせっけ ) といいます。

  『 鷹司家 』 ( たかつかさけ ) は、鎌倉中期に藤原北家嫡流の近衛家実の四男兼平を祖とする公家の名家です。

  戦国時代には鷹司忠冬を最後に一度断絶しましたが、江戸初期に二条信房が鷹司家を再興し、江戸後期から幕末にかけては鷹司家が関白を務めることが多く、名家として近代まで続きました。
  

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2012年03月15日

お松明式

 『 お松明式 』

  毎年3月15日、嵯峨野の 清凉寺 では釈迦の入滅 ( 死 ) を悲しみ遺徳を偲ぶ 「 涅槃会 」 が行われ、続いて夜になると 『 お松明式 』 が行なわれ、境内に立てられた3本の大松明に火が点けられて瞬く間に大きな炎が夜空を焦がします。

  この 「 お松明式 」 は、釈迦の荼毘 ( 火葬 ) を表すと言われ、また稲作が始まる前の行事のため、3本の大松明がそれぞれ早稲、中稲、晩稲を表わすとして、それぞれの燃え方で 稲作の出来を占う儀式 ともなりました。
  

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2012年03月14日

猫入り涅槃図

 『 猫入り涅槃図 』

  涅槃図 には 釈迦 の涅槃 ( 死 ) を嘆き悲しむ大勢の弟子とともに、象や虎や孔雀など様々な 鳥獣 が描かれています。

  ところが昔から涅槃図に が描かれることはなく、“ 釈迦の使いである鼠を猫が食べたから ”“ 猫は鼠にだまされて釈迦の涅槃 ( 死 ) に間に合わなかった ” など諸説が伝えられています ( ゆえに猫は干支にもいない ) 。

  ところが 東福寺 の涅槃図は 『 猫入り涅槃図 』 ( 室町時代 ) と呼ばれ、作者の 明兆 が描いている時に絵の具 ( 染料 ) を裏山 ( 現、絵具谷 ) から持ってきた猫を描いた、といわれています。

『 東福寺涅槃会 』  東福寺
   3月14日~16日
   縦15m×横8mの涅槃図
   室町時代の画家明兆作 「 猫入り涅槃図 」
  

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2012年03月13日

涅槃

 『 涅槃 』

  『 涅槃 』 ( ねはん ) とは、あらゆる煩悩 ( ぼんのう ) が消え去り、苦しみを離れた安らぎの理想の境地である 悟りの世界 を意味し、それゆえに 「 死 」 そのものを 「 涅槃 」 ともいい、また一般的には仏教を開いた 釈迦の死「 涅槃 」 といいます。

  釈迦の涅槃は 陰暦 2月15日 ( 現在の新暦は3月15日 ) とされ、釈迦の遺徳をたたえる 『 涅槃会 』 ( ねはんえ ) が各地の寺院で行われ、堂内には釈迦が死を迎える光景を描いた 涅槃図 ( ねはんず ) が掲げられます。
  

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2012年03月07日

権現造

 『 権現造 』

  北野天満宮 の本殿を側面から拝見すると、右の 本殿 と左の 拝殿 が軒の低い 石の間 によって結ばれており、また拝殿の両側には 楽の間 が続いていることから屋根の構造が複雑で、俗に 「 八棟造 」 ( やつむねづくり ) といわれています。

  この形式が徳川氏 ( 東照大権現 ) ゆかりの日光東照宮などに継承されたことから、一般的に 『 権現造 』 ( ごんげんづくり ) と呼ばれています。

  現在の社殿は、慶長12 ( 1607 ) 年に豊臣秀頼の寄進によって建築されたもので、国宝に指定されています。
  

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2012年03月01日

弥生

 『 弥生 』

  旧暦3月は 『 弥生 』 ( やよい ) と呼ばれ、新暦となった現在でも3月の別称として 「 弥生 」 を用いています。

  「 弥生 」 という言葉は、“ 春になって草木がいよいよ生い茂る月 ” という意味の言葉である 「 木草弥や生ひ月 」 ( きくさいやおひづき ) が短縮されて 「 やよい 」 となったと考えられています。

  また、3月の別称として他に、花月 ( かげつ )、嘉月 ( かげつ )、花見月 ( はなみづき )、夢見月 ( ゆめみつき )、桜月 ( さくらづき )、暮春 ( ぼしゅん ) などがあります。
  

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2012年02月29日

菩薩

 『 菩薩 』

  『 菩薩 』 ( ぼさつ ) とは、如来 ( にょらい : 悟りを開いて仏教上の最高の状態にある存在 ) になろうと発心 ( ほっしん : 最高の悟りに達しようと決心すること ) して修業に励む人であり、弥勒菩薩観世音菩薩地蔵菩薩 などは 如来に次ぐ高位の仏 として古くから信仰されてきました。

  弥勒 ( みろく ) 菩薩 は、釈迦の死から 56億7千万年後 に如来となって人びとを救済するとされ、それまでの間は 地蔵菩薩 が六道で苦しむ人びとを救済するとされています。
  

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2012年02月28日

福井藩邸跡

 『 福井藩邸跡 』

  堀川通二条下ル東側一帯には、江戸後期に 福井藩藩邸 が建てられていました。

  藩邸 とは各藩が 京都に設けた出先機関連絡事務所 ) で、居留守役 が藩邸に詰めて様々な事務連絡に務めていました。

  幕末福井藩主松平春嶽 ( まつだいらしゅんがく ) は、幕府政治の改革公武合体運動 を強く推し進めた人物として知られ、坂本龍馬 も京都の福井藩邸を訪ねて藩主・松平春嶽や藩士らと面談しています。
  

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2012年02月26日

明王

 『 明王 』

  真言宗の本尊仏である 大日如来 ( だいにちにょらい ) は “ 宇宙そのもの ” であるとされ、密教の曼荼羅図 ( まんだらず ) には、大日如来を中心とする仏の世界が描かれています。

  優しい慈悲に満ちた仏様の中において、髪を逆立て、目を見開き、牙を剥き出した怒りの形相をした 『 明王 』 ( みょうおう ) は、人びとに強い印象を与えます。

  人間の内側にある弱い心や怠ける心に対し、明王は強い怒りでそれを断じ、人を正しい真理へと導きます。 明王の怒り とは、優しい慈悲に満ち溢れた怒り なのです。
  

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2012年02月25日

四条通

 『 四条通 』

  東の端に 八坂神社、西の端に 松尾大社 が鎮座する 『 四条通 』 は、今も昔も賑わう京のメインストリートです。

  古くから四条室町は 「 鉾の辻 」 と呼ばれ、ここを中心に祗園祭の山鉾が並び、町衆の夏祭が行われてきました。

  その町衆の楽しみと言えば、四条河原で興行された芸能の数々。 なかでも 出雲阿国 が演じた 「 かぶき踊り 」 は町衆の間で大人気となって賑わい、芝居小屋が所狭しと建ち並びました。 現在は 南座 が京都唯一の歌舞伎劇場として残るのみとなりました。
  

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2012年02月23日

臥竜の老梅

 『 臥竜の老梅 』

  今から1100年前、醍醐天皇が母の菩提を弔うために建立した 勧修寺 ( かじゅうじ ) は、皇室や藤原氏の帰依を受け、代々法親王が住持してきた格式ある門跡寺院です。

  勧修寺には樹齢が300年を超える 梅の古木 があります。 300年前の初代の木の根から子と孫の木が生えた珍しい姿をしており、孫の木が今、つぼみをほころばしています ( 初代と二代目は枯れ木として根元に横たわる )。

  梅の古木が、まるで竜が絡み付いているようにも見えることから 『 臥竜の老梅 』 ( がりゅうのろうばい ) と呼ばれています。

※写真はイメージ
  

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2012年02月22日

小町通

 『 小町通 』

  数々の伝説を秘めた一条戻橋から東へ歩くと、一条通から北へ延びる細い道があり、その交差点の北西角に 『 小町通 』 と書かれた小さな石碑が立っています。

  平安時代、小野小町 ( おののこまち ) の名声を妬む 大伴黒主 ( おおとものくろぬし ) は、前夜に小町邸で歌を盗み聞いて 万葉集草紙 ( そうし:綴じてある本 ) に書き加えて、翌日の歌合せで小町の歌が万葉集の 盗作 だと 批判 しましたが、小町が草紙を 井戸の水で洗う と、加筆された筆書きの文字が消えて 身の潔白が証明された という物語が伝えられています。

  石碑の辺りが謡曲 「 草紙洗小町 」 の舞台とされる小野邸の井戸があった場所とされ、細い道は 小町通 と呼ばれ、石碑の側面には 小野小町雙紙洗水遺跡 と刻まれています。
  

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2012年02月20日

杉玉

 『 杉玉 』

  日本酒の造り酒屋の軒先に吊るされる 『 杉玉 』 ( すぎたま ) は、スギの葉 ( 穂先 ) を集めてボール状にした物で、酒林 ( さかばやし ) とも呼ばれています。

  青々とした杉玉が吊るされると 新酒 が出来たという目印となり、時間とともに色褪 ( あ ) せて茶色になり、酒の 熟成度 を人びとに知らせてくれます。

  杉を飾って酒の神の御加護を願う風習に由来し、また造り酒屋では杉の新芽 ( 防腐作用の成分を含有 ) を集めて、酒が腐りかけると杉の新芽を酒に浸けていました。
  

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2012年02月16日

歌の中山

 『 歌の中山 』

  清水寺 から 清閑寺 へと山麓に続く杉並木の山路は、その山路からの美しい景色を多くの歌人が眺めて歌に詠んだことから 『 歌の中山 』 ( うたのなかやま ) と呼ばれるようになりました。

  昔、清閑寺の僧・真燕 ( しんえん ) が山門に佇んでいた時に 美しい女 へ 「 清水への道は何れでしょうか? 」 と問いかけたところ、< 見るにだに 迷う心のはかなくて 誠の道を いかで知るべき > と戒めの歌を返されたと伝えられています。
  

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2012年02月09日

首途八幡宮

 『 首途八幡宮 』

  “ 自分の家を出発して旅に向かうこと ”“ 新しい生活に向けて出発すること ”「 門出 」 ( かどで ) といい、古くは 「 首途 」 ( かどで ) とも表記しました。

  西陣の 『 首途八幡宮 』 ( かどではちまんぐう ) は、平安末期、京都を追われた 牛若丸源義経 ) が奥州平泉へ下る際、旅の安全を祈願した神社と伝えられ、以来 首途 ( かどで : 出発 ) を願う 首途八幡宮 と呼ばれるようになりました。

  現在も 旅行安全の守護神 として厚く信仰されています。
  

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2012年02月06日

毘沙門天

 『 毘沙門天 』

  『 毘沙門天 』 ( びしゃもんてん ) は、夜叉 ( やしゃ : 鬼神 ) を率いて須弥山 ( しゅみせん : 仏教の宇宙観において世界の中央にそびえるという山 ) の 北方を守護する神 とされ、四天王の一尊 として 「 多聞天 」 ( たもんてん ) とも呼ばれています。

  毘沙門天は鎧甲冑を身にまとい、武器を携えることから古来より 武神 としても崇められ、戦国武将・上杉謙信 は自らを 毘沙門天の転生 であると信じていたとされ、旗印にも 「 毘 」 の文字を用いていました。
  

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2012年02月04日

立春

 『 立春 』

  現在、世界の共通暦である グレゴリオ暦 とは、太陽の動きによって季節が変化する周期 ( 一太陽年 ) をもとに作られた 太陽暦 ( たいようれき ) の一種です。

  明治6 ( 1873 ) 年、明治政府によって日本国も太陽暦へと移行しましたが、それまでは月の動きを基準とする 太陰暦 ( たいいんれき ) に季節の変化など 太陽暦 の要素を加えて作られた 太陰太陽暦 ( たいいんたいようれき ) が用いられていました。

  今日は暦の上では、春の始まりとされる 『 立春 』 ( りっしゅん ) です。
  

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